大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

天霧らひ日方吹くらし・・・巻第7-1231

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天霧(あまぎ)らひ日方(ひかた)吹くらし水茎(みづくき)の岡(をか)の水門(みなと)に波立ちわたる

 

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空一面に霧がかかってきて、東風が吹いているのか、岡の港に波が押し寄せてきた。

 

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 「覊旅(きりょ)」の歌。巻第7には旅の歌が多くあり、なかでも舟旅の歌では、波の高さや風の強さ、あるいは海の難所に不安を抱いている歌が多くみられます。船の構造も頑丈ではなかったため、航路は海岸沿いに進むのがふつうだったようです。

 「天霧らひ」空一面に霧がかかって。「日方」は日の方から吹く風で、東南風とされますが、異説もあります。「水茎の」は瑞々しい茎が生えている意で「岡」の枕詞。「岡の水門」は福岡県の遠賀川河口の港で、良港だったといいます。

 

もみち葉の過ぎにし児らと・・・巻第9-1796~1799

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1796
もみち葉の過ぎにし児らと携(たずさ)はり遊びし磯を見れば悲しも

1797
潮気(しおけ)立つ荒磯(ありそ)にはあれど行く水の過ぎにし妹(いも)が形見とそ来(こ)し

1798
古(いにしえ)に妹と我(わ)が見しぬばたまの黒牛潟(くろうしがた)を見れば寂(さぶ)しも

1799
玉津島(たまつしま)礒の浦廻(うらみ)の真砂(まなご)にもにほひて行かな妹(いも)も触れけむ

 

要旨 >>>

〈1796〉黄葉が散るように死んでしまった妻と、手を取り合って遊んだことのある磯を見ると悲しくなってくる。

〈1797〉潮煙が立つほどの荒磯だけれど、流れる水のように死んでしまったあなたを思い出す土地と思ってやって来た。

〈1798〉昔、私はあなたと二人して見に来たことのある黒牛潟に来たけれど、一人で見るのは寂しくてならない。

〈1799〉玉津島の磯の浦辺の白砂、この白砂にたっぷり染まって行きたい。亡くなったあなたも触れたであろうから。

 

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 題詞に「紀伊の国にして作る歌」とある4首で、かつて妻と共に楽しく過ごした思い出の地に、妻が亡くなった後に一人でやって来て詠んだ歌です。

 1796の「もみち葉の」は「過ぎ」の枕詞。1797の「行く水の」は「過ぎ」の枕詞。「過ぐ」は死ぬことを意味します。1798の「黒牛潟」は、和歌山県海南市の黒江湾のこと。黒牛に似た大石が潮の干満によって見え隠れしていました。1799の「玉津島」は和歌山市和歌浦玉津島神社の後方の山々。当時は島でした。「にほひて」は美しい色にして。「行かな」の「な」は願望。

 斎藤茂吉は1797について、「句々緊張して然も情景とともに哀感の切なるものがある。この歌は、巻一(47)の人麻呂作、『真草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し』というのと類似しているから、その手法傾向によって、人麻呂作だろうと想像することが出来る」と述べ、他の3首も「哀深いものである」と評しています。

 

橘の寺の長屋に我が率寝し・・・巻第16-3822

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橘(たちばな)の寺の長屋(ながや)に我(わ)が率寝(ゐね)し童女放髪(うなゐはなり)は髪(かみ)上げつらむか

 

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橘寺の僧坊長屋に私が連れ込んで寝たおかっぱ頭の少女は、もう一人前の女になって、髪を結い上げたであろうか。

 

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 「古歌に曰はく」とある歌。「橘の寺」は明日香にあった橘寺のことで、聖徳太子建立の七ケ寺の一つとされます。「長屋」は僧坊長屋で、寺の奴婢などの住居。「童女放髪」は肩のあたりで切ったお下げ髪。「髪上げ」は成人した女が、垂らした髪を結い上げること。要は、「昔、俺が連れ込んでヤッちゃった少女は、もう大人になっただろうか」という、まことにもってケシカランことを言っている歌です。

 なお、この歌の左注に椎野連長年(しいののむらじながとし:伝未詳)による解説があり、そもそも寺の建物は俗人の寝られるところではない、また、成人した女を「放髪」というのであって、第4句で放髪と言い、結句で重ねて成人をあらわす語を言うのでは意味が通らないとしています。そして、正しくは、

橘の照れる長屋に我が率寝し童女 放髪に髪上げつらむか(3823)

だと定めています。「橘の寺の長屋」を、橘寺ではなく橘が照り映える長屋とし、「童女放髪」を2語と見て改めていますが、これは曲解による改悪であるとする見方があります。そもそも僧坊と少女という、あってはならない取り合わせだからこそ刺激的であり、歌に生彩が与えられているのであって、長年が修正した歌では、面白味が全く消滅しています。しかも、元歌には「橘の寺」と明示しているのです。

 作家の田辺聖子は、「お下げ髪の童女と若い僧であろうか、それとも寺に使われる堂童子でもあろうか、相手がうない髪の童女だけに卑猥感はなく、『我が率寝し』は強引に力ずくで迫ったのではない、童女が誘われて諾(うん)といって、ついてきたのである。・・・それらの思い出が『童女放髪は髪上げつらむか』という懐かしさになって唇にのぼってきたのだ。この歌を好んで伝えた庶民も、僧院の情事に低俗な好奇心を持ったというより、大らかな性愛に共感し、寛大になる、その心持を愛したのであろう」と述べています。

 ところで、この寺には、寄宿している僧や召使のための私的な部屋を集合した施設があったことが窺えます。あたかも江戸時代の長屋に似た居住形態のようで、寺に特有の施設だったかもしれませんが、狭い土地に大人数が住むためにくふうされたものであれば、寺以外でも設けられていた可能性があります。

 

藤波の影なす海の・・・巻第19-4199~4202

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4199
藤波(ふぢなみ)の影(かげ)なす海の底(そこ)清み沈(しづ)く石をも玉とぞ我(わ)が見る

4200
多祜の浦の底さへにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため

4201
いささかに思ひて来(こ)しを多祜の浦に咲ける藤見て一夜(ひとよ)経(へ)ぬべし

4202
藤波を仮廬(かりほ)に造り浦廻(うらみ)する人とは知らに海人(あま)とか見らむ

 

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〈4199〉藤の花が影を成して映っている海の底が清らかなので、沈んでいる石まで、真珠であるかのように見える。

〈4200〉多胡の浦の底まで映し出す波打つ藤、この花を髪にかざしていこう。まだ見たことのない人のために。

〈4201〉さほどでもあるまいと思ってやって来たが、多胡の浦に咲く藤に見ほれて、一晩過ごしてしまいそうだ。

〈4202〉藤の花で飾って仮小屋にして浦巡りしているだけなのに、それとも知らずに、人は私たちを土地の漁師と見るだろうか。

 

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 天平勝宝2年(750年)4月12日、大伴家持は、越中国庁の部下の役人たちと布勢(ふせ)の湖(氷見市南部にあった湖)に遊覧し、多祜(たこ)の入江に船を停泊して藤の花を見学しました。家持が越中守として赴任したのは27歳のとき。この年は31歳になっていましたが、都を出て異郷の風物に接した彼は、大いに詩魂をゆさぶられたようで、生涯で最も多くの歌を詠んだのはこの時期にあたります。

 なかでも布勢の湖の景観は家持のお気に入りだったらしく、都から来た客もわざわざ案内しているほどです。湖の一角にある多祜の浦の岸辺には藤の花が多く咲いていたらしく、ここの歌は藤の花を見てそれぞれが作った歌です。4199が家持の歌、4200が次官の内蔵忌寸縄麻呂(くらのいみきなわまろ)の歌、4201が判官の久米朝臣広縄(くめのあそみひろなわ)の歌、4202が判官の久米朝臣広縄(くめのあそみひろなわ)の歌。

 現代の私たちは、多祜の浦の風景をこれらの歌から想像するしかありませんが、久米広縄の歌では「さほど期待はしていなかったのに・・・」と言いつつ、その美しさに大いに感動したようすがうかがえます。

 

東歌(10)・・・巻第14-3577

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愛(かな)し妹(いも)をいづち行かめと山菅(やますげ)の背向(そがひ)に寝(ね)しく今し悔(くや)しも

 

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愛しい妻が死んでしまうとは思わないで、山菅の葉のように背を向け合って寝たことが、今となっては悔やまれてならない。

 

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 「山菅の」は「背向」の枕詞。「背向」は背中合わせ。「今し悔しも」の「し」は強意で、今は残念なことだ。妻を亡くした夫の悲しみの歌で、ささいなことでケンカした夜のことを思い出して悔やんでいます。

 なお、この歌は、巻第7-1412にある「吾が背子を何処行かめとさき竹の背向に宿しく今し悔しも」によったもので、いささか内容を変えて自身の歌にしています。別伝とある歌はたいていこのようなものです。

 

落ち激ち流るる水の・・・巻第9-1713~1714

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1713
滝の上の三船(みふね)の山ゆ秋津(あきつ)べに来鳴きわたるは誰呼子鳥(たれよぶこどり)

1714
落ち激(たぎ)ち流るる水の磐(いは)に触(ふ)り淀(よど)める淀に月の影(かげ)見ゆ

 

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〈1713〉吉野川の滝の上にそびえる御船山から、秋津野にかけて鳴き渡ってくるのは、誰を呼んでいる呼子鳥なのか。

〈1714〉勢いよくたぎって流れてきた水が、巌石に突き当たって淀んでいる。その淀みに月影が映っている。

 

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 題詞に「吉野離宮行幸の歌」とある作者未詳歌で、養老7年(723年)の元正天皇行幸の時の歌ではないかとされます。1713の「三船の山」は吉野離宮の上流にある山。「秋津辺」は離宮のある秋津野の辺り。「誰呼子鳥」は誰を呼ぶ呼子鳥かで、呼子鳥は今のカッコウ

 1714は水面の月光を見ている光景で、ほとばしる水勢の烈しさから、岩陰に淀む水面の静けさへとなだらかに移行させ、とても印象明瞭な歌になっています。賀茂真淵は、これら2首の風格からして、人麻呂の作ではなかろうかと言っており、斎藤茂吉もこの歌を秀歌の一つに掲げています。

 

持統天皇と志斐嫗の問答歌・・・巻第3-236~237

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236
否(いな)といへど強(し)ふる志斐(しひ)のが強語(しひがたり)この頃(ころ)聞かずてわれ恋ひにけり

237
否(いな)といへど語れ語れと詔(の)らせこそ志斐(しひ)いは奏(まを)せ強語(しひがたり)と詔(の)る

 

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〈236〉もうたくさんだといっても無理に話して聞かせるお前の話を、この頃聞かないので、また聞きたくなりましたよ。(持統天皇

〈237〉もうお話は止しましょうと申し上げても、話せ話せとおっしゃったのです。それを無理強いの話だとおっしゃるのはひどうございます。(志斐嫗)

 

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 持統天皇志斐嫗(しひのおみな)の問答歌。志斐嫗の伝は不明。志斐は氏の名で、嫗は老女の意の通称とされます。この老女は女帝側近の老女官長だったのか、あるいは語り部などの職にいて、記憶がよく話も面白かったのでしょう。「強語」とは、いったいどのような話をしていたのでしょうか。「否といへど」と逃げられながらも、嫗が「否といへど」と強調しているところから、しかつめらしい話などではなく、滑稽な性的説話のようなものではなかったかとする見方もあります。いずれにしても、かの時代にあって、天皇との間にこれほどの親愛の情が表現されているのに驚きます。

 斎藤茂吉も、「お互いの御親密の情がこれだけ自由自在に現れているということは、後代の吾等にはむしろ異といわねばならぬ程である。万葉集の歌は千差万別だが、人麻呂の切実な歌などのあいだに、こういう種類の歌があるのもなつかしく、尊敬せねばならぬ」と言い、また、「(持統)天皇歌人としての御力量は、『春過ぎて夏来るらし』の御製等と共に、近臣の助力云々などの想像の、いかに当たらぬものだかということを証明するものである」とも言っています。

 なお、実は、志斐姓そのものが「強語」を連想させるものだったとする見方があります。『新撰姓氏録』には阿倍志斐連(あべのしいのむらじ)の賜姓伝承が載っており、楊(やなぎ)の花を辛夷(こぶし)の花と言い、誤りに気づいたものの、強弁を尽くしてその正当性を主張したことが、賜姓の由来になったとあります。ひょっとして、志斐嫗の「強語」も、これに類するような話だったのかもしれません。

 持統天皇は、689年に、先人の善言や教訓、説話を集めた書を撰上させるための官職「撰善言司(せんぜんげんし)」を任命しており、中国の『古今善言(ここんぜんげん)』30巻にならって、皇族や貴族の修養に役立てつ教訓的な史書を作ろうとしたようです。文才のある官人を登用したものの、結局、書物は完成せず、撰善言司は解散となり、草稿は『日本書紀』編纂の際に活用されたとも言われます。