大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

相見ては面隠さるるものからに・・・巻第11-2554

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相(あひ)見ては面(おも)隠さるるものからに継(つ)ぎて見まくの欲(ほ)しき君かも

 

要旨 >>>

顔を合わせると、恥ずかしくて顔を隠したくなるのですが、それなのに、すぐにまた見たいと思う、あなたなのです。

 

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 結婚後間もない女の歌。「ものからに」は、そういうものと決まっているのに、決まって自然に。「継ぎて」は、引き続いて。「見まく」は「見むこと」で、名詞。

 作家の田辺聖子はこの歌について、「可憐な新妻の風情であるが、それにしても『万葉集』の歌いぶりは古今独歩のもの、こんなに率直で飾り気のない言葉を並べながら、その奥にわくわくする心はずみ、美しい羞恥が揺曳(ようえい)し、たいそうデリケートな、清らかなエロスとなって発散している」と評しています。

 

大宮の内にも外にもめづらしく・・・巻第19-4285~4287

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4285
大宮の内(うち)にも外(と)にもめづらしく降れる大雪な踏(ふ)みそね惜(を)し

4286
御園生(みそのふ)の竹の林に鴬(うぐひす)はしば鳴きにしを雪は降りつつ

4287
鴬(うぐひす)の鳴きし垣内(かきつ)ににほへりし梅この雪にうつろふらむか

 

要旨 >>>

〈4285〉大宮の内にも外にも、珍しく降り積もっている大雪を、踏み荒らしてくれるな、惜しいから。

〈4286〉御苑の竹林で、ウグイスがしきりに鳴いていたのに、雪はなおも降り続いている。

〈4287〉ウグイスが鳴いて飛んだ御庭の内に美しく咲いていた梅は、この雪で散ってしまうだろうか。

 

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 天平勝宝5年(753年)1月11日、大雪が降って一尺二寸積もった。よって自らの思いを述べた歌3首。一尺二寸は、約36センチ。

 4285の「な踏みそね」の「な~そ」は禁止。窪田空穂はこの歌について、「家持の歌としては風の変わったものである。大体として家持の歌は、対象を一応自身の中に取入れ、白身の気分と融合させた上で、どちらかというと物静かに美しく詠むのであるが、この歌はそれとは異なって、いわば大景ともいうべきものと取組み、そしてその最も言いたいことを、気分化とは無関係に、『な踏みそね惜し』と、説明に近い態度でいっているのである。この詠み方は彼としては珍しい」。

 4286は、4285に続いて、皇居にあって詠んだ歌。「御園生」は、皇居の御苑の植込み。「しば鳴き」の「しば」は、しきりに。「降りつつ」の「つつ」は、継続で、下に「ゐる」が略されています。4287の「垣内(かきつ)」は「かきうち」の約。「にほへりし梅」は、色美しく咲いていた梅。「うつろふらむか」は、散るだろうか。

 

御民我れ生ける験あり・・・巻第6-996

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御民(みたみ)我(わ)れ生ける験(しるし)あり天地(あめつち)の栄(さか)ゆる時にあへらく思へば

 

要旨 >>>

天皇の御民である私は、まことに生きがいを感じております。天も地も一体となって栄えているこの御代に生まれ合わせたことを思いますと。

 

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 天平6年(734年)、聖武天皇による、歌を詠めとの詔(ご命令)に応じて海犬養岡麿(あまのいぬかひのおかまろ)が詠んだ大御代の讃め歌。海犬養岡麿は、海人系の氏族で、福岡市博多区住吉付近を本拠とし、もとは『日本書紀』に見える那津官家の守衛だったのが、その後中央に進出し、宮城門の守衛に従事したとされます。『万葉集』にはこの1首のみを残しています。「御民」の「御」は美称で、天皇の民。「生ける験」は、生き甲斐。「あへらく」は、めぐり合ったこと。

 斉藤茂吉によれば、「応詔歌であるから、謹んで歌い、荘厳の気を漲らしめている。そして斯く思想的大観的に歌うのは、この時代の歌には時々見当たるのであって、その思想を統一して一首の声調を完(まっと)うするだけの力量がまだこの時代の歌人にはあった。それが万葉を離れるともはやその力量と熱意が無くなってしまって、弱々しい歌のみを作るにとどまる状態となった。この歌などは、万葉としては後期に属するのだが、聖武の盛世にあって、歌人等も競い勤めたために、人麿調の復活ともなり、かかる歌も作らるるに至った」。

 過ぐる太平洋戦争の時代には、国家主義イデオロギーが高唱されるたび、この歌が伴奏曲として唱えられました。作家の田辺聖子はこのことに関し、次のように述べています。「民族遺産の古典を、ひとにぎりの人々が私(わたくし)した時代の弊風を思わないではいられない。現代の女性たちがそれぞれの立場から思い思いに古典を愛しはじめた風潮を、私は楽しいことと思う。女性たちは今後、特定の古典に恣意的な彩りをほどこして、時代精神のより所とするといったあやまちを、再び犯すまいとするだろう」

 万葉集研究でも有名な賀茂真淵は、この歌を本歌取りし、「み民われ 生けるかひありて さすたけの 君がみことを 今日聞けるかも」という歌を詠んでいます。

 

雄略天皇の御製歌・・・巻第1-1

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籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ふくし)持ち この岳(をか)に 菜(な)摘(つ)ます児(こ) 家(いへ)告(の)らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(いま)せ われこそは 告らめ 家をも名をも

 

要旨 >>>

おお、籠よ、良い籠を持ち、おお堀串も、良い堀串を持って、この丘で若菜を摘んでいる娘さん、家はどこか言いなさい、何という名前か言いなさいな、神の霊に満ちた大和の国は、すべて私が従えている、すべて私が治めているのだが、私のほうから告げようか、家も名をも。

 

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 天皇と娘子との聖なる結婚によって、国土の繁栄が約束されることを歌った歌。作者は、5世紀後半の第21代・雄略天皇(412~479年)。允恭(いんぎょう)天皇の第5皇子で『古事記』下巻に登場する英雄的な君主です。歌をよくし、その霊力によって女性や国を獲得したという伝説があります。権勢は全国に及んだようで、埼玉県の稲荷山古墳と熊本県の江田船山古墳から、雄略天皇をしめすと思われる「ワカタケル」の銘のある鉄剣が出土しています。478年に中国へ使節を送った倭王「武」も、この雄略天皇とみられています。

 「籠」は、摘んだ若菜を入れるカゴ、「掘串」は、土を掘るヘラのこと。「み籠」「み掘串」の「み」は相手の持ち物を讃える接頭語。「もよ」は、詠嘆の助詞。「菜」は、食用になる野の雑草。早春に娘たちが野山に出て若菜を摘み食べるのは、成人の儀式だったといわれます。「摘ます」は「摘む」の敬語。「児」は、女性を親しんで呼ぶ語。「告らせ」は「告る」の敬語を添えての命令形。「告る」は発言の中で最も重要なものを行う場合に使われる語。「名」は真の名。「そらみつ」は「大和」の枕詞。「おしなべてわれこそ居れ」は、私がすべて平らげているのだが。「しきなべてわれこそ座せ」は、私がすべて治めているのだが。「座せ」は、天皇が自身について敬語を用いる、いわゆる自称敬語。

 古代、名にはそのものの霊魂が宿っていると考えられていました。通称とは異なり、真の名は母親と自分のみ知るものとして秘する習いだったのです。ですから、名告りは重要なことであり、女が男に自分の名を告げ知らせるのは、自分のすべてをさらけ出し、相手の意のままになる、すなわち男の求婚に応じることになります。逆に、男が女の名を聞くのは、その霊魂を請い取ることを求め、求婚することを意味しました。

 「菜摘ます児」と、天皇が敬語を使って呼びかけたのは、ただの行きずりの女だったのではなく、尊重した扱いをすべき村の豪族の娘だったからでしょう。娘は、見知らぬ男から突然声を掛けられて求婚され、羞恥と恐懼の感からものが言えなかったのでしょう。それに気づいた天皇が自身の身分を告げたところ、女はその男性が大和の統治者であることを知らされ、ますます驚いて何も言えなかったようです。天皇は、女の情を察して、「われこそは告らめ」と、やさしく言い、また婉曲に女の応諾を促しています。もっとも、ここでの天皇の求婚は、豊作を祈る一種の農耕儀礼だったのかもしれません。

 この歌は、『万葉集』ができた時代から約200年も遡る古いものながら、万葉の当時の人々も、雄略天皇の時代に日本の国土が統一されたと考えていたようです。そうした英雄である天皇の歌を『万葉集』の冒頭に据えたのには、『万葉集』を立派な書物であると権威づける意味があった、あるいは、天皇の権威をたたえると共に、その優しさや慈愛を強調することによって、天皇のイメージを膨らませる意図があったと考えられます。ただ、この歌は天皇の実作ではなく、もともとは共同体のなかで、毎年春、農作業に取りかかる時期に五穀豊穣を祈って歌われた伝承歌謡だと考えられており、中間へ「そらみつ~我こそ座せ」の部分を挿入して天皇の歌としたのかもしれません。

 正岡子規は、この歌について次のように評しています。「この御歌、善きか悪きかと問ふに面白からずといふ人あり。吾は驚きぬ。思ふに諸氏のしかいふはこの調が五七調にそろひ居らねばなるべし。もし然らばそは甚だしき誤なり。長歌を五七調に限ると思へるは五七調の多きためなるべけれど、五七調以外のこの御歌の如きはなかなかに珍しく新しき心地すると共に、古雅なる感に打たるるなり。趣向の上よりいふも初めに籠ふぐしの如き具象的の句を用ゐ、次にその少女に言いひかけ、次にまじめに自己御身の上を説き、終に再びその少女にに言ひかけたる處、固よりたくみたる程にはあらで自然に情のあらはるる歌の御様なり。殊にこの趣向とこの調子と善く調和したるやうに思はる。もしこの歌にして普通五七の調にてあらば、言葉の飾り過ぎて真摯の趣を失ひ却ってこの歌にて見る如き感情は起こらぬなるべし。吾はこの歌を以て萬葉集中有数の作と思ふなり」
 
 なお、天皇の詠まれた歌は「御製歌」と記されていますが、漢文風に「ごせいか」と訓まれたか、あるいは国風に「おおみうた」と訓まれたかは、はっきりしていません。題詞は漢文で書かれており、当時の文章はすべて漢文であったため、漢文風の訓みが存在し得た一方、『古事記』では、天皇の歌を「大御歌(おおみうた)」と呼んでいるからです。

 また、この歌の訓読文にある「大和」は、原文では「山跡」となっており、『万葉集』で「大和」がうたわれている他の歌の原文は、「山跡」のほか、「山常」「倭」「八間跡」「夜麻登」などとなっており、「大和」の文字は使われていません。「大和」という文字が当てはめられたのは孝謙上皇の時代とみられており、争乱のない、皆が大きく協力しあえる国を目指すものとして定められたようです。

 

東歌(21)・・・巻第14-3386

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にほ鳥の葛飾(かづしか)早稲(わせ)を饗(にへ)すともその愛(かな)しきを外(と)に立てめやも

 

要旨 >>>

葛飾の早稲を神に捧げる新嘗祭の夜であっても、愛しいあの人を外に立たせておくことなどできない。

 

鑑賞 >>>

 下総の国の歌。「にほ鳥の」の「にほ鳥」はカイツブリで、魚を獲るために水に潜(かず)くことから同音の「葛飾」にかかる枕詞。「饗す」は、神に新物を捧げることで、ここでは秋の新嘗祭。神を祭るのは選ばれた未婚の娘の役目とされ、家を清浄にし、家族でも家の内に入れるのを禁じたといいます。そこへ恋人が忍んでやって来たので、禁忌を犯すことになっても、空しく外に立たしておかれようか、と言っています。「愛しき」は、愛しい人。「やも」は、反語。「やも」は、反語。

 斎藤茂吉は、自分の恋しいあのお方というのを「その愛しきを」といっているのは、簡潔でぞくぞくさせる程の情味もこもりいる、まことに旨い言葉であると評しており、作家の田辺聖子は、放胆で無邪気な歌であるとして、「いったい『万葉集』の女人は、それ以後の女人が失ってしまったような強烈な自己主張を発揮していて、それもこの歌集を魅力的にしている理由の一つである」と言っています。

 

大伴旅人が遊行女婦、児島の歌に答えた歌・・・巻第6-967~968

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967
倭道(やまとぢ)の吉備(きび)の児島(こじま)を過ぎて行かば筑紫(つくし)の児島(こじま)思ほえむかも
968
大夫(ますらを)と思へる吾(われ)や水茎(みづくき)の水城(みづき)のうへに涕(なみだ)拭(のご)はむ

 

要旨 >>>

〈967〉大和路の吉備の児島を過ぎる時には、きっと筑紫の児島を思い出すことだろう。

〈968〉立派な男子だと思っているこの私が、お前との別れに、水城の上で涙を拭うとは・・・。

 

鑑賞 >>>

 大伴旅人が、帰京のため大宰府を発つ際に、遊行女婦、児島が詠んだ2首の送別歌(965・966)に答えて作った歌です。こちらの歌も同様に、送別の宴席で詠まれた気配があります。967の「吉備の児島」は、備前国児島郡で、今は倉敷市編入されている児島のこと。地名と人名を重ね合わせて、女への惜別の情と旅愁とをうまく溶け合わせて表現しています。968の「大夫」は、勇気のある立派な男子。「水茎の」は、音の類似性から「水城」にかけた枕詞。

 968について窪田空穂は、「この歌は言外にじつに深い味わいをもっている。それはこの歌の調べで、豊かに清らかで、旅人その人の全幅を思わせるものがある。思うにこの際の旅人の心は、単に児島に限られたものではなく、大宰府在任期間の感がおのずからに綜合されてきて、それが、この歌に流れ込み、こうした調べをなしたのではないかと思われる。旅人の作を通じても代表的な一首である」と述べています。

 また、これらの歌のやり取りについて、斎藤茂吉は、「当時の人々は遊行女婦というものを軽蔑せず、真面目にその作歌を受取り、万葉集はそれを大家と共に並べ載せているのは、まことに心にくいばかりの態度である」と述べています。旅人と児島との私的な関係を云々する見方もないではないのですが、ここの旅人は、国の高官として、身分の上下や職業の貴賤などにいっさいかかわらずすべての民草を天皇の「おほみたから」であるとする根幹の形にのっとり、その気持ちや思いをしっかりと受けとめているのです。

 

水城について

 博多湾からやって来る外敵を防ぐために、堤を築き、前面に水をたたえた堀のこと。特に、白村江の戦(663年)の敗北後の天智天皇3年(664年)、新羅に対する大宰府防衛のために設けられたものをさし、福岡県太宰府市水城に土塁堤防状遺構、東西の門址・礎石などが残っています。大宰府筑紫平野の内陸部にあるのも、戦争に備える必要があったからです。水城は国の特別史跡に指定されています。

遊行女婦の児島が大伴旅人に贈った歌・・・巻第6-965~966

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965
凡(おほ)ならばかもかも為(せ)むを恐(かしこ)みと振(ふ)り痛(た)き袖(そで)を忍びてあるか
966
倭道(やまとぢ)は雲隠(くもがく)りたり然(しか)れどもわが振(ふる)る袖(そで)を無礼(なめ)しと思ふな

 

要旨 >>>

〈965〉貴方様がふつうのお方であったなら、なんなりともいたしましょうが、御身分を考え恐れ多いことと、振りたい袖をおさえています。

〈966〉大和路ははるばると続いて雲の彼方に隠れています。振るまいと思いましたが堪えきれず、どうか私の振る袖を無礼だとお思いにならないでください。

 

鑑賞 >>>

 「冬十二月、大宰帥大伴卿の京に上る時に、娘子の作る歌二首」。左注によれば、大宰府に赴任していた大伴旅人が、大納言遷任となり、大和へ旅立つ日、水城(みずき)を吹き渡る冷たい風の中にはかすかに雪の香りも漂い、大勢の見送りの役人たちに混じって、美しい遊行女婦、児島(こしま)の姿がありました。居並ぶ役人の面前で、彼女が詠んだというのが、この2首の送別歌です。実際には、その地で開かれた別離の宴席での歌らしく、左注に書かれているエピソードは、旅人が筑紫を離任するときの模様を美化したもののようです。旅人の、大宰府の長官としての滞在は3,4年に及ぶものでした。

 965の「凡ならば」は、平凡とか普通とかの意味。相手の大伴旅人がもし普通の人であったなら、の意と解されていますが、自分がこんな立場の人間でなかったら、ともとれます。「かもかも」は「かもかくも」と同じで、とにもかくにも、ああでもこうでも。966の「倭道」は、大和へ向かう道。「雲隠りたり」は、その道がはるばると遠いことを具象的に言ったもの。「然れども」は逆接の接続詞ですが、上2句との繋がりがありません。2首連作であるところから、前の歌の「振りたき袖を忍びてあるかも」から繋がっていると見られます。「無礼し」は、無礼だ。娘子は、別れがいともたやすく、再会が困難なことを悲しんでいます。

 窪田空穂はこれらの歌を評し、「その心の赤裸々に現われている歌で、娘子の全幅を髣髴させるものである。おそらく長く愛顧を蒙った帥との別れに臨み、その当時の風に従って記念になるべきことをああこうと思ったが、自身の身分を省みて一切を遠慮してさしひかえ、今見送りをすると路の上に立っても、きわめて普通にする袖を振ることも、したくて堪らないのをじっと怺えて、ただ帥を見詰めている心の躍動の現われである。言っている言葉そのものは一遊行婦としての心であるが、それを通して正直な、わきまえの十分にある、しかも情熱と感激に富んだ女の心の動きの跡が現われている」と述べています。

 

※水城とは
  博多湾からやって来る外敵を防ぐために、堤を築き、前面に水をたたえた堀のこと。特に、白村江の戦(663年)の敗北後の天智天皇3年(664年)、新羅に対する大宰府防衛のために設けられたものをさし、福岡県太宰府市水城に土塁堤防状遺構、東西の門址・礎石などが残っています。大宰府筑紫平野の内陸部にあるのも、戦争に備える必要があったからです。水城は国の特別史跡に指定されています。

 

遊行女婦について

 娘子(おとめ)と呼ばれ、万葉集に秀歌を残している人たちの多くは遊行女婦(うかれめ)たちだろうといわれています。その殆どは出身国の名がつくだけで、どのような生い立ちの女性であるか定かではありません。当時は、身分の高い女性のみ「大嬢」とか「郎女」「女郎」などと呼ばれ、その上に「笠」「大伴」などの氏族名がつきました。

 遊行女婦は、官人たちの宴席で接待役として周旋し、華やぎを添えました。ことに任期を終え都へ戻る官人のために催された餞筵(せんえん)で、彼女たちのうたった別離の歌には、多くの秀歌があります。

 その生業として官人たちの枕辺にもあって、無聊をかこつ彼らの慰みにもなりました。しかし、そうした一面だけで遊行女婦を語ることはできません。彼女たちは、「言ひ継ぎ」うたい継いでいく芸謡の人たちでもありました。