訓読 >>>
338
験(しるし)なきもの思(おも)はずは一坏(ひとつき)の濁(にご)れる酒を飲むべくあるらし
339
酒の名を聖(ひじり)と負(おほ)せし古(いにしへ)の大(おほ)き聖(ひじり)の言(こと)の宜(よろ)しさ
340
古(いにしへ)の七(なな)の賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせしものは酒にしあるらし
341
賢(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔(ゑ)ひ泣きするし優(まさ)りたるらし
342
言はむすべ為(せ)むすべ知らず極(きは)まりて貴(たふと)きものは酒にしあるらし
343
なかなかに人とあらずは酒壺(さかつほ)になりにてしかも酒に染みなむ
344
あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿(さる)にかも似む
345
価(あたひ)なき宝といふとも一杯(ひとつき)の濁(にご)れる酒にあにまさめやも
要旨 >>>
〈338〉かいのないことをくよくよ思うより、一杯の濁り酒を飲む方がよほどましだと思われる。
〈339〉酒の名を聖(ひじり)と名付けた昔の大聖人がいる。その言葉のまことに結構なことよ。
〈340〉昔の中国の七賢人たちでさえ、欲しくてならなかったのは、この酒であったようだ。
〈341〉利口ぶって説き立てるより、酒を飲んで酔い泣きする方がずっとまさっている。
〈342〉言いようもなく、なすすべもないほどに、無上に貴いものは酒であるらしい。
〈343〉中途半端に人間であるより酒壺になってしまいたい。そうすれば、たっぷりと酒に浸ることができよう。
〈344〉ああ見苦しい。酒も飲まずに利口ぶっている人の顔をよく見ると、猿に似ている。
〈345〉どんなに値がつけられないほど貴重な宝でも、一杯の濁り酒より価値のあるものなどありはしないだろう。
鑑賞 >>>
「大宰帥大伴旅人卿の酒を讃える歌13首」とあるなかの8首で、旅人65歳の作です。宴席で詠まれた歌とみられ、酒飲みが喜びそうな歌がずらりと並んでいます。近世以前は、酒は祝いの日など特別な機会に大きな杯に注いで大勢で回し飲みして飲み干すものでしたが、旅人は一人で飲むのも好きだったようです。ただ、この前年(神亀5年:728年)に、旅人は筑紫に伴った愛妻大伴女郎を亡くしており、また当年2月には、皇親政治の推進者である長屋王が藤原氏の策略によって自尽しています。ここの歌は、それらの悲しみを引きずり続ける苦しみからの解放を願って詠んだものとされます。
338の「験なき物」は、思ったところでどうにもならないこと。「濁れる酒」は、糠を漉さない白濁した酒、どぶろくのこと。短期間で発酵させるため、今日の酒に比べて甘く、アルコール度数も低いものでした。当時は既に清酒も醸造されていましたが、冒頭に濁り酒を掲げたのは、次歌に中国の故事を踏まえることや漢詩文の隠士の風貌を彷彿させるためともいわれます。「飲むべくあるらし」の「らし」は、推定の助動詞で、旅人の愛用語でもあります。339は、中国・魏の時代に太祖の禁酒令に対し、酔客が清酒を「聖人」、濁酒を「賢人」と呼んだという故事を言っています。「古の大き聖」は、昔の中国の大聖人で、徐邈を指しています。
340の「古の七の賢しき人」とは、俗世を避け、竹林のもとに集まり酒を交わして清談(老子の思想を断じること)に耽ったという晋の阮籍(げんせき)、 康(けいこう)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、劉伶(りゅうれい)、阮咸(げんかん)、王戎(おうじゅう)の7人の隠士のこと。前歌の「聖人」に続き、ここでは「賢人」を持ち出しています。ただし5世紀ごろに書かれた『世説新語』には、彼ら7人は決していわゆる聖人君子などではなく、妻にさからって酒を飲んだり、酒が飲みたいばかりに役所の調理場で働く姿が描かれています。旅人が彼らを理想としたのは、そうした人たちだったからなのかもしれません。
341の「賢しみ」は、利口ぶって、賢ぶって。「酔泣き」は、いわゆる泣き上戸のことで、泣き上戸の酔人であっても、利口ぶる、賢ぶる人よりもまだましだと言っています。「酔泣き」は347・350にも繰り返されているところから、窪田空穂は、「旅人にはそうした性癖があったのではないかとも思われる」と言っています。342の「言はむすべ為むすべ知らず」は、言いようもなく為すすべもないほどに。「極まりて貴き」は、この上なく貴い。漢語の「極貴」の訓読語です。「酒にし」の「し」は、強意の副助詞。
343の「なかなかに」は、中途半端な状態、転じて、かえって、むしろ。「なりにてしかも」は、なりたいものだなあ。中国三国時代、呉の鄭泉(ていせん)という男が、自分が死んだら、土となって酒壺として焼かれるように窯の側に埋めよと遺言した故事によっています。344の「あな」は、強い感情から発する語。ああ。「賢ら」は名詞で、利口ぶること。「猿にかも似る」の「かも」は、詠嘆を込めた疑問の係助詞。この歌を13首の中心に位置に置き、しかも初句切れとしたのは享受者に強く印象づける意図があるともいわれ、都の誰か特定の人のことを念頭に置いた歌かもしれません。また、「猿」が出てくるのは『万葉集』中、この1首のみです。
345の「価なき宝」は、仏典にある「無価宝珠(むげのほうじゅ)」の訳語で、仏法を値段で量れないほどの無上の貴い珠に喩えた表現。「あにまさめやも」の「あに~めやも」は、どうして~だろうか、いやそうではない、の意で、反語の詠嘆表現。どうしてまさろうか。
大伴旅人の略年譜
710年 元明天皇の朝賀に際し、左将軍として朱雀大路を行進
711年 正五位上から従四位下に
715年 従四位上・中務卿に
718年 中納言
719年 正四位下
720年 征隼人持説節大将軍として隼人の反乱の鎮圧にあたる
720年 藤原不比等が死去
721年 従三位
724年 聖武天皇の即位に伴い正三位に
727年 妻の大伴郎女を伴い、太宰帥として筑紫に赴任
728年 妻の大伴郎女が死去
729年 長屋王の変(2月)
729年 光明子、立后
729年 藤原房前に琴を献上(10月)
730年 旅人邸で梅花宴(1月)
730年 大納言に任じられて帰京(12月)
731年 従二位(1月)
731年 死去、享年67(7月)