大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

新しき年の初めは・・・巻第19-4229

訓読 >>>

新(あらた)しき年の初めはいや年に雪踏み平(なら)し常かくにもが

 

要旨 >>>

新年の初めをいよいよこのように年を重ね、積もった雪を踏みならして平穏に迎え、いつもこんな風でありたいものよ。

 

鑑賞 >>>

 天平勝宝3年(751年)正月2日に、越中国国司だった大伴家持の邸宅で宴を開いた時の歌です。律令では、正月に国司が郡司らを招いて、まず都の天皇その地から拝み、次いで宴をするものと規定されていました。その目的は二つあり、一つは全国一律にそうした儀礼をおこなうことによって地方の人々の心を中央に向かわせるため、二つ目は中央から派遣された国司と、地方に根づく豪族たちの代表である郡司たちとの良好な人間関係を築くためでした。

 家持(718?~785年)は大伴旅人の長男で、万葉集後期の代表的歌人です。収録されている歌数ももっとも多く、繊細で優美な独自の歌風を残しています。少壮時代に内舎人越中守・少納言・兵部大輔・因幡守などを歴任。天平宝字3年(759)正月の歌を最後に万葉集は終わっています。その後、政治的事件に巻き込まれましたが、中納言従三位まで昇任、68歳?で没しました。

 家持の作歌時期は、大きく3期に区分されます。第1期は、年次の分かっている歌がはじめて見られる733年から、内舎人として出仕し、越中守に任じられるまでの期間。この時期は、養育係として身近な存在だった坂上郎女の影響が見受けられ、また多くの女性と恋の歌を交わしています。

 第2期は、746年から5年間におよぶ越中国守の時代。家持は越中の地に心惹かれ、盛んに歌を詠みました。生涯で最も多くの歌を詠んだのは、この時期にあたります。

 第3期は、越中から帰京した751年から、『万葉集』最後の歌を詠んだ759年までで、藤原氏の台頭に押され、しだいに衰退していく大伴氏の長としての愁いや嘆きを詠っています。

 

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