訓読 >>>
3398
人皆(ひとみな)の言(こと)は絶ゆとも埴科(はにしな)の石井の手児(てご)が言な絶えそね
3399
信濃道(しなぬぢ)は今の墾(は)り道 刈りばねに足踏ましなむ沓(くつ)はけ我(わ)が背
3400
信濃(しなぬ)なる筑摩(ちくま)の川の細石(さざれいし)も君し踏みてば玉と拾はむ
要旨 >>>
〈3398〉世の人の消息や噂が絶えることはあっても、埴科の石井の乙女の消息だけは絶えないでほしいものだ。
〈3399〉信濃道(しなのぢ)は切り拓いたばかりの道です。きっと切り株をお踏みになるでしょう。靴を履いてお越しになって下さい、あなた。
〈3400〉信濃を流れる千曲川の小石でも、あの方が踏んだ石なら玉と思って拾いましょう。
鑑賞 >>>
巻第14は「東国(あづまのくに)」で詠まれた作者名不詳の歌が収められており、巻第13の長歌集と対をなしています。国名のわかる歌とわからない歌に大別し、それぞれを部立ごとに分類しています。当時の都びとが考えていた東国とは、おおよそ富士川と信濃川を結んだ以東、すなわち、遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥の国々をさしています。『万葉集』に収録された東歌には作者名のある歌は一つもなく、また多くの東国の方言や訛りが含まれています。
もっともこれらの歌は東国の民衆の生の声と見ることには疑問が持たれており、すべての歌が完全な短歌形式(5・7・5・7・7)であり、音仮名表記で整理されたあとが窺えることや、方言が実態を直接に反映していないとみられることなどから、中央側が何らかの手を加えて収録したものと見られています。また、東歌を集めた巻第14があえて特立しているのも、朝廷の威力が東国にまで及んでいることを示すためだったとされます。
上掲の3首は いずれも信濃の国(長野県)の歌です。3398の「埴科」は信濃の郡名で、今の千曲市あたり。「石井」は、湧き水を石で囲んだ井。いわゆる掘り抜き井戸だけでなく、川や池に設けられた水場や水が湧き出る場所なども「井」と呼ばれました。「手児」はかわいい乙女の意で、「石井の手児」は「真間の手児名」と同様に伝説の美女ではないかとされます。「な絶えそね」の「な~そ」は禁止。「ね」は、願望。
3399の「信濃道」は信濃へ行く道。「今の墾り道」は、新しく切り開いて造った道という意味です。大宝2年(702年)から10余年かかって開通した道で、道が完成して間もないころの歌とみられます。このころの一般庶民は裸足で、沓(くつ)は正式なものは革製でしたが、ふつうは布や藁(わら)などで作られました。この歌は、女の許へ通ってきた男が帰ろうとする時に女が言ったものですが、親愛をこめたからかいのようでもあります。一方、歌があまりに整いすぎていることから、都から信濃へ下る官人の妻の作ではないかとも言われます。また、「馬が切り株を踏まないように靴を履かせよ」とする解釈もあります。
3400の「千曲の川」は、現在の千曲川。原文では「知具麻能河」と表記されており、「ちぐま」と濁って発音されたようです。長野県南佐久郡に流れを発し、長野市の犀川で合流し、新潟県に入ると信濃川と呼ばれます。「細石」は、川原の砂利石のこと。恋人を偲ぶよすがとなるものだったら、小石でさえ愛しく思う女性のいじらしい心理が歌われています。作家の田辺聖子は、この「君し踏みてば玉と拾はむ」の句について、「どうしてこういう詩が古代びとの唇から、いともやすやすとこぼれおちるのか。その言葉こそ、片言節句、珠ではないか」との評を寄せています。また、この歌も非常に洗練されていて、訛りや方言もないことから、都の官人が信濃へ下ったもので、その妻の詠んだ歌ではないかとも言われています。