訓読 >>>
聞きしより物を思へば我が胸は破(やぶ)れて砕(くだ)けて利心(とごころ)もなし
要旨 >>>
噂に聞いて以来、その人に恋して物思いをしていますので、私の胸は破れて砕けて、理性で判断できる心もありません。
鑑賞 >>>
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。「聞きしより」は、噂を聞いてからの意。「利心」はしっかりした気持ち、理性の意。なお、この歌の「破れて砕けて」を本歌取りとしたのが、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の「大海の磯もとどろに寄する波われてくだけて裂けて散るかも」の有名な歌です。
実朝は、藤原定家から『万葉集』を贈られ、和歌の指導を受けて作歌に励みました。といっても京と鎌倉に離れていましたから、今でいう通信教育による師弟関係でした。そして、上掲の歌のほかに実朝が参考にしたとされるのが次の2首の歌です。
「大海(おほうみ)の磯もと揺り立つ波の寄せむと思へる浜の清けく」(巻7-1239:作者未詳)
「伊勢の海の磯もとどろに寄する波 畏(かしこ)き人に恋ひわたるかも」(巻4-600:笠郎女)
相聞歌の表現方法
『万葉集』における相聞歌の表現方法にはある程度の違いがあり、便宜的に3種類の分類がなされています。すなわち「正述心緒」「譬喩歌」「寄物陳思」の3種類の別で、このほかに男女の問と答の一対からなる「問答歌」があります。
正述心緒
「正(ただ)に心緒(おもひ)を述ぶる」、つまり何かに喩えたり託したりせず、直接に恋心を表白する方法。詩の六義(りくぎ)のうち、賦に相当します。
譬喩歌
物のみの表現に終始して、主題である恋心を背後に隠す方法。平安時代以後この分類名がみられなくなったのは、譬喩的表現が一般化したためとされます。
寄物陳思
「物に寄せて思ひを陳(の)ぶる」、すなわち「正述心緒」と「譬喩歌」の中間にあって、物に託しながら恋の思いを訴える形の歌。譬喩歌と著しい区別は認められない。