訓読 >>>
1966
風に散る花橘(はなたちばな)を袖(そで)に受けて君が御跡(みあと)と偲(しの)ひつるかも
1967
かぐはしき花橘を玉に貫(ぬ)き贈らむ妹(いも)はみつれてもあるか
1968
ほととぎす来鳴(きな)き響(とよ)もす橘(たちばな)の花散る庭を見む人や誰(た)れ
要旨 >>>
〈1966〉風に舞い散る橘の花びらを袖に受け止め、その香りをあなたの形見のように偲んでいます。
〈1967〉香りのよい花橘の実を薬玉にして贈ってやろう。彼女はやつれ果てて病床についているのではないだろうか。
〈1968〉ホトトギスが来て鳴き声を響かせている、橘の花の散っている庭、この庭を一緒に見て楽しんでくれる人は誰だろう。
鑑賞 >>>
「花を詠む」歌。「橘」は柑橘類の一種で、『日本書紀』によれば、垂仁天皇の代に、非時香菓(ときじくのかくのみ:時を定めずいつも黄金に輝く木の実)を求めよとの命を受けた田道間守(たじまもり)が、常世(仙境)に赴き、10年を経て、労苦の末に持ち帰ったと伝えられる 植物です。しかしその時、垂仁天皇はすでに崩御しており、それを聞いた田道間守は、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺しました。次代の景行天皇が田道間守の忠を哀しみ、垂仁天皇陵近くに葬ったとされます。そうした伝説が影響してか、宮廷の貴族たちは好んで庭園に橘を植えたといいます。
1966の「君が御跡と」の「跡」は、形見、名残、足跡。原文は「為君御跡」で、「君がみためと」と訓み、「あなたに差し上げるために」のように解するものもあります。1967の「みつる」は、やつれる。1968の「響もす」は、響かせる。
作者未詳歌
『万葉集』に収められている歌の半数弱は作者未詳歌で、未詳と明記してあるもの、未詳とも書かれず歌のみ載っているものが2100首余りに及び、とくに多いのが巻7・巻10~14です。なぜこれほど多数の作者未詳歌が必要だったかについて、奈良時代の人々が歌を作るときの参考にする資料としたとする説があります。そのため類歌が多いのだといいます。
7世紀半ばに宮廷社会に誕生した和歌は、7世紀末に藤原京、8世紀初頭の平城京と、大規模な都が造営され、さらに国家機構が整備されるのに伴って、中・下級官人たちの間に広まっていきました。「作者未詳歌」といわれている作者名を欠く歌は、その大半がそうした階層の人たちの歌とみることができ、東歌と防人歌を除いて方言の歌がほとんどないことから、機内圏のものであることがわかります。
⇒ 各巻の概要