訓読 >>>
1441
うち霧(き)らし雪は降りつつしかすがに吾家(わぎへ)の園(その)に鶯(うぐひす)鳴くも
1446
春の野にあさる雉(きぎし)の妻恋(つまご)ひにおのがあたりを人に知れつつ
要旨 >>>
〈1441〉大空を霞(かす)ませるように雪が降りしきる。でも、我が家の庭には、春の到来を告げるかのようにウグイスが鳴いている。
〈1446〉春の野に餌をあさる雉は、妻を慕って鳴き、自分の居場所を狩人に知られてしまっている。
鑑賞 >>>
大伴家持の最初期、14歳の作とされます。天平4年(732年)ころ。1441の「しかすがに」はしかしながら、そうはいうものの、の意。
大伴家持(718?~785年)は、大伴旅人の長男。万葉集後期の代表的歌人で、歌数も集中もっとも多く、繊細で優美な独自の歌風を残しました。
少壮時代に内舎人・越中守・少納言・兵部大輔・因幡守などを歴任。天平宝字3年(759)正月の歌を最後に万葉集は終わっています。その後、政治的事件に巻き込まれましたが、中納言従三位まで昇任、68歳?で没しました。
家持の作歌時期は、大きく3期に区分されます。第1期は、年次の分かっている歌がはじめて見られる733年から、内舎人として出仕し、越中守に任じられるまでの期間。この時期は、養育係として身近な存在だった坂上郎女の影響が見受けられ、また多くの女性と恋の歌を交わしています。
第2期は、746年から5年間におよぶ越中国守の時代。家持は越中の地に心惹かれ、盛んに歌を詠みました。生涯で最も多くの歌を詠んだのは、この時期にあたります。
第3期は、越中から帰京した751年から、「万葉集」最後の歌を詠んだ759年までで、藤原氏の台頭に押され、しだいに衰退していく大伴氏の長としての愁いや嘆きを詠っています。