訓読 >>>
石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の萌え出づる春になりにけるかも
要旨 >>>
岩の上を勢いよく流れる滝のほとりに、わらびがやわらかに芽吹いている。ああ、春になったのだな。
鑑賞 >>>
巻第8の巻頭歌であり、志貴皇子(716年没)のよろこびの御歌とあります。雪解けの水かさが増した滝のほとりに、わらびが芽吹いているのを発見し、長い間待ち焦がれた春の訪れを喜んでいる歌であり、『万葉集』を代表する秀歌とされます。志貴皇子は天智天皇の皇子で、光仁天皇の父にあたります。『万葉集』にはわずか6首の歌しか残っていませんが、哀感漂う歌が多く、すぐれた歌人との評価が高い人です。
斉藤茂吉は、この歌について次のように評しています。「この歌は、志貴皇子の他の御歌同様、歌調が明朗・直線的であって、しかも平板に堕ちることなく、細かい顫動(せんどう)を伴いつつ荘重なる一首となっているのである。御よろこびの心が即ち、『さ蕨の萌え出づる春になりにけるかも』という一気に歌いあげられた句に象徴せられているのであり、小滝のほとりの蕨に主眼をとどめられたのは、感覚が極めて新鮮だからである。この『けるかも』と一気に詠みくだされたのも、容易なるが如くにして決して容易なわざではない」
なお、この歌の冒頭句「石激」の読みは、平安時代以来「いはそそく」とされていたのが、江戸時代中期の国学者・賀茂真淵の考案によって「いはばしる」と変えられ、今に定着していった経緯があります。しかし一方では、戦後、一部に「いはそそく」が復活した時期があり、さらに今でも、真淵が「いはばしる」とした論拠がかなり強引であることを指摘し、他の文献に見られる「激」の用例との照合などによって、やはり「いはそそく」が万葉時代の正しい読みだとする見方があります。
それによれば、古代日本語の「そそく」は、「お湯をそそぐ」「雨がそそぐ」のような現代の穏やかな語感とは違い、水が岩に当たって高く飛び跳ね、勢いよく降り注ぐさまを表現する言葉だったといいます。ところが江戸時代にはそうした語感はすでに失われており、当時の感覚に合わせて、「いはそそく」から「いはばしる」に改変されたようなのです。