訓読 >>>
315
み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし さやけくあらし 天地(あめつち)と 長く久しく 万代(よろづよ)に 変はらずあらむ 幸(いでま)しの宮
316
昔見し象(きさ)の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも
要旨 >>>
〈315〉美しい吉野の宮は、山そのものがよくて貴い。川そのものがよくて清らかだ。天地とともに永く久しく万代に変らずあってほしい、天皇がお出かけになる吉野宮よ。
〈316〉昔見た象の小川を今再び見ると、ますます冴え冴えと美しくなった。
鑑賞 >>>
暮春の月(春の3月)、聖武天皇が吉野の離宮に行幸なさった時、天皇の仰せを受けて大伴旅人(おおとものたびと)が作った長歌と反歌。こうした改まった際の賀歌には、古風に長歌形式をもってするのが先例となっていました。また、最高の敬意をもって天皇を讃える場合、親近しているかのように言うのはかえって非礼とされましたから、距離を置いた宮そのものを讃えています。ただし、この歌は上奏するに至らなかったとの注記があります。
315の「山からし」の「から」は本性よりしての意、「し」は強意の助詞。「貴くあらし」の「あらし」の「らし」は推量、「あるらし」と同じ。316の「昔」は、天武・持統朝の時代のこと。「象の小川」は、吉野を流れる現在の貴佐谷川。「いよよ」は、いよいよ、ますます。
大伴旅人は安麻呂(やすまろ)の子で、家持の父、同じく万葉歌人の大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)は妹にあたります。大伴氏は、新興の藤原氏と比べても、古くから政治の中枢にいた名門の豪族であり、旅人は710年に左将軍正五位上、718年に中納言、720年に征隼人持節(せいはやとじせつ)大将軍に任ぜられ、隼人を鎮圧しました。727年ごろ大宰帥(だざいのそち)として九州に下り、730年12月に大納言となって帰京。翌年に従二位となり、その年7月に67歳で没しました。
旅人は『万葉集』に70首前後の歌を残していますが、ここの長・短歌以外はすべて大宰府へ赴任して以降の作となっています。