訓読 >>>
ももしきの大宮人(おほみやひと)は暇(いとま)あれや梅をかざしてここに集(つど)へる
要旨 >>>
大宮人たちは暇(いとま)があるからだろうか、梅をかざしてここに集まっている。
鑑賞 >>>
題詞に「野遊(やいう)」とある4首のうちの1首です。「ももしきの」は「大宮」にかかる枕詞。「大宮人」は宮中に仕える人のこと。「かざす」は、きれいな花や枝を折って髪に挿すこと。春の野に集う人々の長閑な光景が目に浮かびますが、この歌はひょっとして、野で遊びまわっている官僚たちを「暇があるのか!」と非難しているのでしょうか。大宮人たちは、週休1日で、毎日の勤務は夜明けからお昼までだったといいます。
作者未詳とされるこの歌は、『新古今集』春下には、山部赤人の作として、梅を桜に、また下の句を変えて載せられています。
「ももしきの大宮人は暇あれや桜かざして今日も暮らしつ」
こちらでは「暇があるからか」の疑問ではなく、「暇があるのだなあ」という、穏やかな詠嘆の表現になっています。また、梅が桜に変わっているのは、平安時代以降、花といえば桜になったからなのでしょう。