訓読 >>>
熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな
要旨 >>>
熟田津で、これから船出しようと月の出を待っていると、潮の流れさえ私たちの待ち望んでいた通りとなってきた。さあ、今こそ漕ぎ出しましょうぞ。
鑑賞 >>>
作者の額田王(ぬかだのおおきみ)は生没年未詳ながら、斉明天皇の時代に活躍がみとめられる代表的な女流歌人です。はじめ大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)に召されて、十市皇女(とおちのひめみこ)を生みましたが、後に天智天皇に愛され、近江の大津宮に仕えました。額田王の「王」という呼び名から、皇室の一人とも豪族出身とも取れ、また出身地も近江の鏡山あたりとも大和の額田郷ともいわれます。鏡山が想定されるのは、父の鏡王(かがみのおおきみ)の名が天武即位紀に見えることによります。
この歌は、額田王の代表作とされます。斉明天皇の7年(661年)正月、斉明女帝は船団を組み、朝鮮半島の新羅に遠征するため西へ向かいます。新羅に侵攻され、存亡の危機にあった百済を救援するためでした。熟田津(にきたつ)は愛媛県松山市の海浜で、ここにしばらく留まった後、いよいよ出航しようとする時の歌です。皇太子の中大兄皇子、大海人皇子をはじめ、皇女たちも同行した大がかりな旅で、この歌は、戦意に燃えた一行のようすを高らかに歌い上げています。
月の出と潮流は密接な関係にあり、ともに船旅には重要な条件でした。「潮もかなひぬ」とあるのは、潮流も思い通りに、船出に都合のよいように流れ始めたと同時に、頼りとする月までも思い通りに出た出たという意味であり、この月を満月とし、ちょうど大潮の満潮にあったとする見方もあります。なお、この船団は3月末に博多に到着、ところが4ヵ月後に天皇はその地で崩御、中大兄皇子は翌々年に軍を進めましたが、白村江にて大敗を喫してしまいます。
なお、この歌は、天皇に成り代わって額田王が詠んだものとされていますが、左注には次のような記述があります。「右の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林で検べてみると、斉明天皇の御船が泊まった伊予の熟田津は、かつての夫である第34代舒明天皇とご一緒に行幸された地であり、斉明天皇は、その風景が昔日のままであるのをご覧になって感愛の情を起こされ、歌を作って哀傷された」。
実際は天皇の御製であるのにそれとするのを憚ったのであれば、そこにはいったいどのような事情があったのでしょう。左注から察するに、天皇にとって熟田津の地は、かつて夫と訪れ、平和と幸せに満ちた思い出深い場所だったはずです。『日本書紀』には、639年、伊予に仮宮を造り、12月から翌年の4月まで4か月もの間逗留されたとの記録があります。道後温泉は、古代から紀伊の牟婁、伊豆の湯本、湯河原、摂津の有馬などと共に著名な湯治場として知られており、お二方はよほど気に入られたのでしょう。
しかし今は、思い出深い風景のこの地から、多くの若者たちを戦地に向かわせなければならない。表面的には船出を鼓舞する勇壮な歌であるけれども、それが勇壮であればあるほど、かえって天皇の辛さや哀しみが透けて見えてくる。左注に「哀傷された」とあるのは、そういう意味を含んでいるのでしょう。そうした個人的な感情と切り離すため、あえて自らの歌としなかったということなのかもしれません。左注はさらに「額田王の歌は別に4首あり」とも明言しています(ただしこれらの歌は伝わっていません)。
なお、この歌の解釈について、別の角度から、遠征の途中で、①この軍旅には、斉明女帝、大田皇女、間人皇女、額田王などの婦人の同行者が多いこと、②当時は夜の航海は非常に危険だったこと、③この御船は伊予の熟田津の石湯の行宮(かりみや)に着いたこと、などを根拠として、熟田津での滞在中に御座船を出して海上で祭事を行った歌であろうという説をとるものもあります。
斉明天皇の治世6年(660年)7月、朝鮮半島に鼎立していた3つの国の一つ、百済が、唐の加勢を得た新羅によって滅ぼされました。といっても百済の息の根が完全にとまったわけではなく、国王や高官たちが捕えられて唐に送られた後も、遺臣たちが次々に挙兵して国勢を挽回しようとしました。中でも有力だったのが、鬼室福信(きしつふくしん)という将軍です。
9月はじめ、来朝した百済の官人と僧によってこのことが伝えられると、日本の朝廷は愕然としました。百済と日本のつながりは強く、親善関係を持っていた国です。ショックのおさまらない10月、鬼室福信からの使者がやって来て、日本の救援を乞います。福信は、30年近く人質として日本に預けてある王子の豊璋(ほうしょう)を新国王としたいから返してほしい、それといっしょに援軍を、というものでした。
朝議は紛糾し、結局、当時の政治を取りし切っていた皇太子・中大兄皇子の決断によって、百済救援と決まりました。68歳の老女帝の乗った軍船を中心に、皇族、高官の乗る船団が難波の津(大阪湾)を出たのは、斉明7年(661年)正月6日。3月25日に那(な)の大津(博多港)に入りましたが、7月、暑さと疲労のため、老女帝が亡くなります。皇太子には、母の死を悼むゆとりもありません。即位もせず、皇太子のままで国政を司ることになります(即位は668年)。
遠征の先発部隊5千余人が、豊璋を伴い出発したのは翌年(662年)正月のこと。さらに1年後の3月、救援第2軍2万7千人が半島に向かい、日本としては、まさに国運をかけての大軍事行動でした。そして、8月27、8両日にわたる白村江(錦江の古名)の決戦で、日本・百済の連合軍は、唐・新羅連合軍に惨敗し、百済はついに滅んだのでした。