大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

持統天皇と志斐嫗の問答歌・・・巻第3-236~237

訓読 >>>

236
否(いな)といへど強(し)ふる志斐(しひ)のが強語(しひがたり)この頃(ころ)聞かずてわれ恋ひにけり

237
否(いな)といへど語れ語れと詔(の)らせこそ志斐(しひ)いは奏(まを)せ強語(しひがたり)と詔(の)る

 

要旨 >>>

〈236〉もうたくさんだといっても無理に話して聞かせるお前の話を、この頃聞かないので、また聞きたくなりましたよ。(持統天皇

〈237〉もうお話は止しましょうと申し上げても、話せ話せとおっしゃったのです。それを無理強いの話だとおっしゃるのはひどうございます。(志斐嫗)

 

鑑賞 >>>

 持統天皇志斐嫗(しひのおみな)の問答歌。志斐嫗の伝は不明。志斐は氏の名で、嫗は老女の意の通称とされます。この老女は女帝側近の老女官長だったのか、あるいは語り部などの職にいて、記憶がよく話も面白かったのでしょう。「強語」とは、いったいどのような話をしていたのでしょうか。「否といへど」と逃げられながらも、嫗が「否といへど」と強調しているところから、しかつめらしい話などではなく、滑稽な性的説話のようなものではなかったかとする見方もあります。いずれにしても、かの時代にあって、天皇との間にこれほどの親愛の情が表現されているのに驚きます。

 斎藤茂吉も、「お互いの御親密の情がこれだけ自由自在に現れているということは、後代の吾等にはむしろ異といわねばならぬ程である。万葉集の歌は千差万別だが、人麻呂の切実な歌などのあいだに、こういう種類の歌があるのもなつかしく、尊敬せねばならぬ」と言い、また、「(持統)天皇歌人としての御力量は、『春過ぎて夏来るらし』の御製等と共に、近臣の助力云々などの想像の、いかに当たらぬものだかということを証明するものである」とも言っています。

 なお、実は、志斐姓そのものが「強語」を連想させるものだったとする見方があります。『新撰姓氏録』には阿倍志斐連(あべのしいのむらじ)の賜姓伝承が載っており、楊(やなぎ)の花を辛夷(こぶし)の花と言い、誤りに気づいたものの、強弁を尽くしてその正当性を主張したことが、賜姓の由来になったとあります。ひょっとして、志斐嫗の「強語」も、これに類するような話だったのかもしれません。

 持統天皇は、689年に、先人の善言や教訓、説話を集めた書を撰上させるための官職「撰善言司(せんぜんげんし)」を任命しており、中国の『古今善言(ここんぜんげん)』30巻にならって、皇族や貴族の修養に役立てつ教訓的な史書を作ろうとしたようです。文才のある官人を登用したものの、結局、書物は完成せず、撰善言司は解散となり、草稿は『日本書紀』編纂の際に活用されたとも言われます。