大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

海行かば水漬く屍・・・巻第18-4094~4097

訓読 >>>

4094
葦原(あしはら)の 瑞穂(みづほ)の国を 天下(あまくだ)り 知らしめしける すめろきの 神の命(みこと)の 御代(みよ)重ね 天(あま)の日継(ひつぎ)と 知らし来る 君の御代(みよ)御代 敷きませる 四方(よも)の国には 山川(やまかは)を 広み厚みと 奉(たてまつ)る 御調宝(みつきたから)は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君(おほきみ)の 諸人(もろひと)を 誘(いざな)ひたまひ よきことを 始めたまひて 金(くがね)かも 確(たし)けくあらむと 思ほして 下(した)悩ますに 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 金ありと 申したまへれ 御心(みこころ)を 明(あき)らめたまひ 天地の 神(かみ)相(あひ)うづなひ すめろきの 御霊(みたま)助けて 遠き代(よ)に かかりしことを 我が御代に 顕(あら)はしてあれば 食(を)す国は 栄えむものと 神(かむ)ながら 思ほしめして もののふの 八十伴(やそとも)の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人(おいひと)も 女童(をみなわらは)も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴(たふと)み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大久米主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草 生(む)す屍 大君の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと言立(ことだ)て 大夫(ますらを)の 清きその名を いにしへよ 今のをつづに 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖(おや)の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言(こと)の官(ゆかさ)ぞ 梓弓(あづさゆみ) 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門(みかど)の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言(みこと)の幸(さき)の 聞けば貴(たふと)み

4095
大夫(ますらを)の心思ほゆ大君(おほきみ)の御言(みこと)の幸(さき)を聞けば貴(たふと)み

4096
大伴の遠つ神祖(かむおや)の奥城(おくつき)はしるく標(しめ)立て人の知るべく

4097
天皇(すめろき)の御代(みよ)栄えむと東(あづま)なる陸奥山(みちのくたま)に金(くがね)花咲く

 

要旨 >>>

〈4094〉葦原の瑞穂の国、この国を、高天原(たかまがはら)から下って治められた代々の天皇の、その神の御代を幾代も重ね、天つ神の御代を次々と継いでお治めになってきた。どの御代にも、治められている四方の国々には山や川があり、国土は広く豊かなので、献上申し上げる御宝は数えきれず、尽くしきれない。けれども、わが大君は多くの人々を導かれ、(大仏建立という)立派な事業をお始めになり、はたして黄金は確かにあるだろうとお思いになり、心配なさっていたところ、東国の道の果ての陸奥の小田というところの山に黄金ありという奏上をお受けになったので、お心を安んじられ、天地の神々ともども喜び合われた。代々の天皇の御霊の助けにより、遠い御代からの懸案だったことをこの御代に顕わしてくださったので、これで、わが国土はますます栄えるであろうと神の御心のままにお思いになった。官人たちを心から仕えさせられるとともに、老人も女子供も、その願いが満たされるまでに慈しみ治められるので、このことを我らは何とも言えないほど尊く思い、ますます嬉しく思う。大伴の遠い祖先の神、その名も大久米主という誉れを背にお仕えしてきた役目柄、海を行くなら水に沈む屍、山を行くなら草に埋もれる屍となっても、大君の近くで死ぬのは本望、決して我が身を省みることはしないと誓ってきた、この大夫の潔い名を昔から今の今まで伝えてきた子孫なのだ。 大伴と佐伯の氏族は、祖先が立てた誓いのままに、子孫はその名を絶やさず、大君にお仕えするのだと言い継がれてきた誓いの家なのだ。梓弓を手に持ち、剣大刀を腰に帯び、大君の御門を朝も夕も守るのは、我らをおいて他に人はあるまいと、いよいよその思いはつのるばかり。大君の御言葉のありがたさが、承るとただ貴くて。

〈4095〉雄々しい大夫の心が湧き起こる。大君の御言葉のありがたさを聞くと貴くて。

〈4096〉大伴の遠い祖先の神の墓所には、標(しめ)を立ててはっきり分かるようにせよ。世の人々が見て分かるように。

〈4097〉すめろき(天皇)の御代が栄えるしるしと、東の国の陸奥山に黄金の花が咲いた。

 

鑑賞 >>>

 大伴家持の歌。題詞に「陸奥国に金(くがね)を出だす詔書を賀(ほ)ぐ歌」とある長歌反歌です。聖武天皇の発願により進められていた大仏の建立が完成に近づき、像に鍍金する金の調達に苦慮していたところに、陸奥で金が産出したとの知らせがありました。天皇は大いに喜び、そこで家持がこの歌を詠んだとされます。天平21年4月1日、天皇東大寺で発せられた詔には、陸奥での金産出を喜ぶことばとともに、大伴・佐伯両氏の忠節をたたえることばがあり、加えて家持は従五位上を授かりました。家の名誉と自身の昇進に感激しつつ、天皇の治世を讃え、長久の栄を祈願している歌です。長歌は107句にも及び、『万葉集』の中では、人麻呂の作(巻第2-199)と作者未詳の竹取翁を詠んだ作(巻第16-3791)に次ぐ、3番目の長さをもつ大作です。

 金を産出した「小田なる山」とされる宮城県遠田郡湧谷町黄金迫には、黄金山(こがねやま)神社があります。この時に陸奥国守だった百済王敬福(くだらのこにしききょうふく)は、百済に儀慈王4世の孫ですが、この勲功により、従五位上から従三位飛び級で昇進し、以後も各地の国守を歴任、さらに宮内卿ほかの高い位について、69歳で没したとされます。ただ、これほどの慶事であり、大事業であったにも関わらず、大仏の開眼供養を詠んだ歌は『万葉集』には1首も残されていません。同時代の正史である『続日本紀』には詳細に述べられているにも関わらず、『万葉集』には全く痕跡をとどめておらず、謎の一つとされます。

 なお、大正・昭和時代の作曲家、信時潔(のぶとききよし)が作曲して戦時中に歌われた『海行かば』の歌詞は、4094の「海行かば水漬く屍・・・」の部分から採られています。ここには、非業の死をとげても顧みないという、「不惜身命」の仏教思想が織り込められているともいわれます。

 語釈は省略します。