大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

磨ぎし心をゆるしてば・・・巻第4-672~674

訓読 >>>

672
倭文環(しつたまき)数にもあらぬ命もて何かここだく我(あ)が恋ひわたる

673
まそ鏡(かがみ)磨(と)ぎし心をゆるしてば後(のち)に言ふとも験(しるし)あらめやも

674
真玉(またま)つくをちこち兼ねて言(こと)は言へど逢ひて後(のち)こそ悔(くい)にはありといへ

 

要旨 >>>

〈672〉ものの数にも入らないつまらない身であるのに、なんでこんなに私は恋い続けるのでしょう。

〈673〉まそ鏡のように清く研ぎ澄ましていた心を、ひとたび緩めて許してしまったら、後でどんなに悔やんでも何の甲斐もありません。

〈674〉玉を緒に通し、こちらとあちらを結んで輪にするように、今も将来もずっと変わらないと口ではおっしゃいますが、逢ってしまった後できっと悔いるものだといいますから。

 

鑑賞 >>>

 672が安倍朝臣虫麻呂(あべのあそみむしまろ)の歌。673・674は大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)が答えた歌。安倍朝臣虫麻呂の母である安曇外命婦(あずみのげみょうぶ)と、郎女の母である石川内命婦(ないみょうぶ)は、同じ家に暮らす仲のよい姉妹でした。その関係から、郎女と虫麻呂もよく会っていて親しい間柄にありました。

 672の「倭文環」は、日本古来の単純な模様があるだけの織物で作られた手纏(てまき:腕輪)のことで、「数にもあらず」の枕詞。「数にもあらぬ命」は、物の数に入らない卑しい身。「ここだく」は、甚だしく。「恋ひ渡る」は、恋い続ける。身分の高い女性への片恋を反省している歌らしく、あるいは独泳かもしれません。

 673の「まそ鏡」は、白銅製の鏡「真澄鏡」の約で、錆を防ぐために磨いだことから、「磨ぐ」に掛かる枕詞。「磨ぎし心」は、研ぎ澄ました心で、男を警戒する強い心を言ったもの。「後に言ふとも」は、後になってとやかく言おうとも。相手の不実を責める意か、あるいは自身の軽率さを悔いて愚痴を言う意か。「験」は、甲斐。「あらめやも」の「や」は、反語。674の「真玉つく」の「真」は、美称、「玉つく」は、玉を身に着けるために緒(を)に貫いての意から「をちこち」に掛かる枕詞。「をちこち」は、あちらこちら。ここでは将来と現在の意。「ありといへ」の「いへ」は「こそ」の係り結び。戯れの歌であったにせよ、男女関係が自由で開放的だった時代にありながらも、聡明な女性らしく、結婚を前にし、将来を思う緊張した心をうたっています。

 

 

 

係り結び

 文中に「ぞ・なむ・や・か・こそ」など、特定の係助詞が上にあるとき、文末の語が終止形以外の活用形になる約束ごと。係り結びは、内容を強調したり疑問や反語をあらわしたりするときに用いられます。

①「ぞ」「なむ」・・・強調の係助詞
 ⇒ 文末は連体形
   例:~となむいひける

②「や」「か」・・・疑問・反語の係助詞
 ⇒ 文末は連体形
   例:~やある

③「こそ」・・・強調の係助詞
 ⇒ 文末は已然形
   例:~とこそ聞こえけれ

『万葉集』掲載歌の索引

大伴坂上郎女の歌(索引)