大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

持統天皇の吉野行幸の折、柿本人麻呂が作った歌・・・巻第1-36~37

訓読 >>>

36
やすみしし わご大君(おほきみ)の 聞(きこ)しめす 天(あめ)の下に 国はしも 多(さは)にあれども 山川の 清き河内(かふち)と 御心(みこころ)を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺(のへ)に 宮柱(みやはしら) 太敷(ふとし)きませば ももしきの 大宮人は 船 並(な)めて 朝川渡り 舟競(ふなきほ)ひ 夕河(ゆふかは)渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高(たか)知らす 水たぎつ 滝の都は 見れど飽かぬかも

37
見れど飽かぬ吉野の河の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまた還(かへ)り見む

 

要旨 >>>

〈36〉わが大君が御統治なさるこの天下に、国は実に多くあるけれども、山や川の清く美しい河内であるとして御心をお寄せになる吉野の国の、花がしきりに散っている秋津の野辺に宮殿を立派にお作りになっていらっしゃるので、お仕えする人々は舟を並べて朝の川を渡り、舟の先を競って夕方の川を渡ってくる。この川の流れのようにいつまでも絶えず、この山が高いようにいよいよ立派にお治めになる、この水の激しく流れ落ちる滝の御殿は、いくら見ても飽きることがない。

〈37〉いくら見ても飽きない吉野の川の滑らかな岩のように、いつまでも絶えずやって来て、この吉野の宮を眺めよう。

 

鑑賞 >>>

 柿本人麻呂が、持統天皇の吉野(奈良県吉野郡)の離宮を称えた歌です。持統天皇は、在位11年の間に31回、吉野へ行幸しています。吉野は大和朝廷にとっては聖地であり、また持統天皇にとっては亡き夫・天武天皇と苦難を共にした想い出の地でもありました。壬申の乱の前に近江朝廷を逃れた彼らは吉野に潜み、挙兵に備えたのでした。その後の度重なる吉野行幸には、天武皇統が持統へ受け継がれたことを確認する目的があったのでしょう。人麻呂のこの歌も、持統天皇天武天皇と一体化して神格化するべく詠まれたものといえます。

 天皇に献ずる賀歌について、わが国のものは中国におけるそれとは明らかに異なっており、帝王の徳を直接に称える表現は、恐れ多く憚りあることとして避けられています。天皇自身に係る語は一つもなく、まず吉野の風景の美しさをいい、結末に賀詞を添えていますが、中心になっているのは、大宮人がこぞって奉仕している姿です。人麻呂もその中の一人に加わっていたはずですが、あたかも第三者として傍観している者のような言い方をしています。

 36の「やすみしし」は安らかに天下をお治めになる意で、「わが大君」の枕詞。「河内」は川を中心として山々に囲まれた場所。「御心を」は「吉野」の枕詞。「秋津」は離宮のあった地名。「ももしきの」は「大宮」の枕詞。「大宮人」は宮殿に仕えている人々のこと。37の「 見れど飽かぬ吉野の河の常滑の」は、「絶ゆることなく」を導く序詞。「見れど飽かむかも」は人麻呂が創始した表現で、讃歌の慣用句として用いられるようになりました。「見れど飽かず」などの類似の表現まで含めると、万葉集に50以上の用例があります。

 江戸時代の国学者で『万葉集』の研究でも知られる賀茂真淵は、人麻呂の特に長歌を評して、「そのなが歌、いきほひは雲風にのりて空行く龍の如く、言(こと)は大海の八百潮(やおしお)のわくが如し」と言っています。