訓読 >>>
404
ちはやぶる神の社(やしろ)しなかりせば春日(かすが)の野辺(のへ)に粟(あわ)蒔(ま)かましを
405
春日野(かすがの)に粟(あわ)蒔(ま)けりせば鹿(しし)待ちに継(つ)ぎて行かましを社(やしろ)し怨(うら)めし
406
我(わ)が祭る神にはあらずますらをに憑(つ)きたる神そよく祭るべし
要旨 >>>
〈404〉もしもあの恐ろしい神の社さえなかったら、春日の野辺に粟を蒔きましょうに。
〈405〉あなたが春日野に粟を蒔くのでしたら、鹿を狙いに毎日行きたいと思うのに、そこにある恐ろしい神社が恨めしい。
〈406〉その神様は私がお祭りしている神ではありません。立派なあなた様にとりついた神ではありませんか。その神をしっかりお祭りください。
鑑賞 >>>
404は、娘子が、佐伯宿禰赤麻呂(さえきのすくねあかまろ:伝未詳)の贈った歌に答えた歌。405は赤麻呂がさらに贈った歌。406はそれに娘子が答えた歌。ただし、404の前にあるはずの赤麻呂の歌は伝わっていません。
404の「ちはやぶる」は荒々しい、たけだけしい意で、荒々しい神ということから「神」に掛かる枕詞。「神の社」は、春日神社のことか。ここでは赤麻呂の妻を譬えています。「し」は強意。「春日の野辺」は、春日野で、奈良の春日山、三笠山のふもとに広がる野、現在の奈良公園を含む地域。「粟蒔く」は、同音の「逢はまく」を掛けており、「せば~まし」は、反実仮想。つまり「あの恐ろしい神の社がなかったら逢えますのに」と、社(妻)の存在を理由に、赤麻呂の誘いを断っています。
405の「鹿」は、娘子の譬え。「社」は、赤麻呂が娘子に愛人がいるものと想像しての譬えであり、「恨めしい」と未練を残しています。406の「ますらをに憑きたる神」は、赤麻呂の妻の譬え。娘子は、なかなか自分の真意を理解しない赤麻呂に対し、「奥さんを大事にしなさい!」とぴしりと返している歌です。窪田空穂は、「全体として見ると、男の態度には余裕があるが、女は一本気であり、従順なところがあると同時に、烈しいところをもっていて、三首の贈答を通して、歌物語の趣をあらわしているものである」と評しています。
いずれも、実際のやり取りではなく、宴席で詠まれた虚構の歌ではないかともいわれます。娘子は架空の遊行女婦か。