大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

世の中は空しきものと知る時し・・・巻第5-793

訓読 >>>

世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり

 

要旨 >>>

世の中がむなしく無常だと現実に知り、今までよりもますます悲しい。

 

鑑賞 >>>

 大伴旅人が、筑紫で妻を失くした時の歌。大宰府に着いてまだ日も浅い神亀5年(728年)初夏のころとみられます。題詞に「凶問に報ふる歌一首」とあり、これに次の意の文章が続いています。

「不幸が重なり、悪い知らせが続く。ひたすら心が崩れるような悲しみを抱き、はらわたが千切れるような辛い涙を流す。ただ両君の支えによって、失われようとする命をわずかにつなぎ止めるのみ」。末尾に「筆不尽言」の語が用いられ、日付も付されていることから、都の「両君」に宛てて書かれた手紙であろうといいます。両君が誰を指しているのかは未詳です。文中に「不幸が重なり」とあるのは、妹の坂上郎女の夫、大伴宿奈麻呂の死の報せではないかとされます。さらに、この歌の後に漢文で書かれた文章が続いており、次のような内容となっています。

「聞くところによれば、万物の生死は、夢がみな空しいように、三界の漂流は、輪が繋がって終わりのないのに似ている。よって、維摩大士は方丈に在りて病気の患いを抱き、釈迦能人は沙羅双樹の林に座して死滅の苦しみから免れることはできなかった。かくして、この無上の二聖人でさえも、死の魔手の訪れを払いのけることはできず、この全世界で、誰が死神が訪ねてくるのをかわすことができようか。この世では、昼と夜が先を競って進み、時は、朝に飛ぶ鳥が眼前を横切るように一瞬に過ぎてしまう。地水火風は互いに争い侵し合い、身は、夕べに走る駒が隙間を通り過ぎるように一瞬にして消えてしまう。ああ、痛ましいことよ。
 妻の麗しい顔色は三従の婦徳とともに永遠に去り、その白い肌は四徳の婦道とともに永遠に滅びてしまった。思いもよらず、偕老の契りは空しくも果たされず、はぐれ鳥のように人生半ばにして独り生きようとは。かぐわしい閨(ねや)には屏風が空しく張られたままで、断腸の哀しみはいよいよ深まり、枕元には明鏡が空しく懸かったままで、嘆きの涙がいよいよ溢れ落ちる。黄泉(よみ)の門がいったん閉ざされたからには、もう二度と妻を見る手だてはない。ああ、悲しい」

 文中の「三従」は、婚前は父に従い、嫁いだ後は夫に従い、夫の死後は子に従うこと。「四徳」は、女の守るべき徳(節操を守る婦徳・言葉遣いをいう婦言・身だしなみをいう婦容・家事をいう婦功)のこと。いずれも昔の中国の女性への教えで、「三従四徳(さんじゅうしとく)」といわれます。なおこの漢文は旅人が書いたのではなく、部下の山上憶良が旅人の気持ちになって書いたものだと考えられています。仏教的な死生観だけでなく儒教道教の言葉が言葉がちりばめられており、憶良の高い教養が窺え、旅人のそれと重なり合うものだったようです。

 大伴旅人は安麻呂(やすまろ)の子で、家持(やかもち)の父、同じく万葉歌人大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)は妹にあたります。710年に左将軍正五位上、718年に中納言、720年に征隼人持節(せいはやとじせつ)大将軍に任ぜられ、隼人を鎮圧しました。727年ごろ大宰帥(だざいのそち)として妻を伴い九州に下り、730年12月に大納言となって帰京。翌年従二位となり、その年7月に67歳で没しました。