訓読 >>>
天(あめ)の海に雲の波立ち月の船(ふね)星の林に漕(こ)ぎ隠(かく)る見ゆ
要旨 >>>
天の海に雲の白波が立ち、その海を月の船が漕ぎ渡り、星の林に隠れていくのが見える。
鑑賞 >>>
巻7の雑歌の冒頭に収められている「天(あめ)を詠む歌」です。天を海に、雲を波に、月を船に、星を林に見立てています。このような趣向は漢詩に多くみられるもので、その影響が濃いとされます。七夕の歌であると思われますが、月の船を漕いでいるのは月人壮士(つきひとおとこ)。壮大で、ロマンチックなメルヘンの世界の歌であり、巻頭に置かれているのは、当時も高く評価されていたことが窺えます。現代の私たちにもお馴染みの月見の風習は、中国盛唐の時代に起こり、日本に伝わったのは平安期になってからです。万葉時代には、月は神秘の対象だったのです。
なお、この歌は海外でも人気が高く、その英訳は次のようなものです。「On the sea of heaven the waves of clouds rise, and I can see the moon ship disappearing as it is rowed into the forest of stars.」
この歌は『柿本人麻呂歌集』から採られている歌です。『柿本人麻呂歌集』は、万葉集編纂の際に材料となった歌集の一つで、人麻呂自身の作のほか、他の作者の歌や民謡などを集めています。この歌も作者ははっきりしませんが、漢詩の趣向が見られるところから、当時の先端を行く文化に触れる機会のあった宮廷の人物が詠んだものと想像され、やはり人麻呂の作ではないかとされます。
七夕と『万葉集』
年に一度、7月7日の夜のみ逢うことを許された牽牛と織女の二星の物語は、もともと古代中国で生まれた伝説で、漢水流域で、機織りを業とする処女と若い農夫との漢水を隔てての恋物語が、初秋の夜空に流れる天の川に投影されたのがその原型とされます。
この「七夕伝説」がいつごろ日本に伝来したかは不明ながら、七夕の宴が正史に現れるのは天平6年(734年)で、「天皇相撲の戯(わざ)を観(み)る。是の夕、南苑に徒御(いでま)し、文人に命じて七夕の詩を腑せしむ」(『続日本紀』)が初見です。ただし『万葉集』の「天の川安の河原・・・」(巻10-2033)の左注に「この歌一首は庚辰の年に作れり」とあり、この「庚辰の年」は天武天皇9年(680年)・天平12年のいずれかで、前者とすれば、天武朝に七夕歌をつくる風習があったことになります。七夕の宴の前には天覧相撲が行われました。
『万葉集』中、七夕伝説を詠むことが明らかな歌はおよそ130首あり、それらは、人麻呂歌集、巻第10の作者未詳歌、山上憶良、大伴家持の4つの歌群に集中しています。その範囲は限定的ともいえ、もっぱら宮廷や貴族の七夕宴などの特定の場でのみ歌われたようです。七夕伝説は、当時まだ一般化していなかったと見えます。