大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

大伴熊凝(おおとものくまごり)の死・・・巻第5-886~891

訓読 >>>

886
うち日さす 宮へ上ると たらちしや 母が手離れ 常(つね)知らぬ 国の奥処(おくか)を 百重山(ももへやま) 越えて過ぎ行き 何時(いつ)しかも 京師(みやこ)を見むと 思ひつつ 語らひ居れど 己(おの)が身し 労(いたは)しければ 玉桙(たまほこ)の 道の隈廻(くまみ)に 草手折り 柴取り敷きて 床じもの うち臥(こ)い伏して 思ひつつ 嘆き臥(ふ)せらく 国に在らば 父とり見まし 家に在らば 母とり見まし 世間(よのなか)は かくのみならし 犬(いぬ)じもの 道に臥(ふ)してや 命過ぎなむ

887
たらちしの母が目見ずておほほしく何方(いづち)向きてか吾(あ)が別るらむ

888
常(つね)知らぬ道の長手(ながて)をくれぐれと如何(いか)にか行かむ糧米(かりて)は無しに

889
家に在りて母がとり見ば慰むる心はあらまし死なば死ぬとも

890
出(い)でて行きし日を数へつつ今日(けふ)今日(けふ)と吾(あ)を待たすらむ父母(ちちはは)らはも

891
一世(ひとよ)にはニ遍(ふたたび)見えぬ父母(ちちはは)を置きてや長く吾(あ)が別れなむ

 

要旨 >>>

〈886〉都へ上ろうと、いとしい母の手を離れ、普通に生活していたら知ることもなかった異郷の奥地へと、多くの山を越えて旅をし、いつになったら都が見られるだろうかと思いながら、皆と語っていたけれど、自分自身が病気で苦しいので、道の曲がり角に草を手折り小枝を取り敷いて、その上に寝床であるかのように倒れ伏し、思いに沈みながら嘆くのは、故郷にいたなら父が看病してくださるだろう、わが家にいたなら母が看病してくださるだろう。世の中はこのようでばかりあるらしい、犬でもないのにまるで犬のように道に倒れ伏して、私の命は絶えていくのか。

〈887〉母の目も見ずに、心は沈み、どちらの方角を向いて、私は別れていくのか。

〈888〉ふだんの生活では知ることもなかった長い道のりを、悲しみに沈みながらどのように進もうか、食べる物もないのに。

〈889〉わが家にいて母が看病してくれたなら心も慰められるだろうに、たとえ死ぬとしても。

〈890〉旅に出てからの日を数えながら、今日は帰るか今日は帰るかと今ごろ私を待っていらっしゃるだろう、父は母は。

〈891〉この世では二度と会うことのできない父母を残し、永遠に私は別れていくのか。

 

鑑賞 >>>

 わずか18歳の若さで病に倒れて亡くなった熊凝(くまごり)を悼み、山上憶良がその気持ちを述べた歌6首。序文によれば、

 ―― 大伴君の熊凝は肥後の国益城郡の人である。18歳のときの天平3年6月17日、相撲使(すまいのつかい)の国府の役人某の従者となって奈良の都に向かった。しかし、天命なのか、不幸にも旅の途中で病になり、そのまま安芸の国佐伯郡の高庭(たかはし)の宿駅で亡くなった。臨終のとき、熊凝は長く嘆息をついてこう言った。
「伝え聞くところによると『この世は仮の世だから人の体は滅びやすく、命は水の泡のようにはかなくとどめることが難しい』とのことです。だから多くの聖人や賢者たちは皆この世を去り、だれも残っていません。まして愚かで卑しい者がどうして死から逃れられましょう。ただ、年老いた両親は、共に粗末な家で私の帰りを待ち、約束の日が過ぎても帰らなければ心を痛めて悔やむでしょう。いくら待っても帰らない私に、きっと失明するまで涙を流し続けるでしょう。父が哀れで、母が痛ましい。私ひとりが死出の旅に発つことは辛くありません。ただあとに残った両親が苦しむことが悲しいのです。今日永遠にお別れしたら、次のいつの世でか、お目にかかりたい」。そして歌を6首作って死んだ――。

 序文にある「相撲使」は、宮中で七夕に催された相撲節会(すまいのせちえ)のため、諸国から集められた相撲人を引率する官のことで、熊凝はその従者として奈良の都へ向かったのでした。相撲節会は、皇極天皇の元年(642年)に百済の使者をもてなすために宮廷の衛士を集めて相撲を取らせたのが史実としての始まりとされ、聖武天皇の時代の天平6年(734年)7月7日には、豊作を祈る公式行事として相撲節会が行われました。なお、相撲節会の真の目的は国を守る強力な人材を選抜することにあり、健児を連れて来られなかった部領史は罰せられたといいます。

 886の「うち日さす」「たらちしや」「玉桙の」は、それぞれ「宮」「母」「道」の枕詞。「奥か」は、奥まった所。「労しければ」は、病気で苦しいので。「床じもの」は、寝床のように。「とり見まし」の「とり見る」は、看病する。「まし」は、反実仮想。「かくのみならし」の「ならし」は「なるらし」の約。887の「たらちしの」は「母」の枕詞。「おほほしく」は、心晴れずに。888の「長手」は、長い道のり。「くれくれと」は、悲しみに沈むさま。889の「心はあらまし」の「まし」は、反実仮想。890の「父母らはも」の「は」「も」は、ともに詠嘆の終助詞。

 行路死人を詠んだ歌は、集中ほかにも例があり、いずれも死者の魂を鎮めるための呪術的な意味をもつ歌となっています。憶良は、そうした歌の伝統の上に立ちながら、さらに死者の内面深くに立ち入り、また、父母への愛執の念を述べています。斎藤茂吉は、888の歌について、「この歌は六首の中で一番優れて居り、想像で作っても、死して黄泉へ行く現身(げんしん)の姿のようにして詠んでいるのがまことに利いて居る。糧米も持たずに歩くと云ったのも、後代の吾等の心を強く打つものである」と評しています。

 

 

行路死人歌

 旅の途中で死人を見つけて詠んだ「行路死人歌」とされる歌が、『万葉集』には21首あります。それらから、この時代、旅の途中で屍を目にする状況が頻繁にあり、さらに道中で屍を見つけたら、鎮魂のために歌を歌う習慣があったことが窺えます。

 諸国から賦役のため上京した者が故郷に帰る際に飢え死にするケースが多かったようです。『日本書紀』には、人が道端で亡くなると、道端の家の者が、死者の同行者に対して財物を要求するため、同行していた死者を放置することが多くあったことが記されています。

 また、養老律令に所収される『令義解』賦役令には、役に就いていた者が死んだら、その土地の国司が棺を作って道辺に埋めて仮に安置せよと定められており、さらに『続日本紀』によれば、そうした者があれば埋葬し、姓名を記録して故郷に知らせよとされていたことが分かります。

 こうした行路死人が少なくなかったことは律令国家の闇ともいうべき状況で、大きな社会問題とされていたようです。