大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

防人の歌(10)・・・巻第20-4325~4327

訓読 >>>

4325
父母(ちちはは)も花にもがもや草枕(くさまくら)旅は行くとも捧(ささ)ごて行かむ

4326
父母(ちちはは)が殿(との)の後方(しりへ)のももよ草 百代(ももよ)いでませ我(わ)が来(きた)るまで

4327
我(わ)が妻も絵に描(か)き取らむ暇(いつま)もが旅行く我(あ)れは見つつ偲(しの)はむ

 

要旨 >>>

〈4325〉父も母も花であってくれればなあ。そしたら旅に出るにしても捧げ持って行こうものを。

〈4326〉父母が住んでいる母屋の裏手のももよ草、そのの名のごとく、どうか百歳までお達者で、この私が帰って来るまで。
 
〈4327〉我が妻をせめて絵に描き写す暇があったらなあ。長い旅路でその絵を見ながら妻をしのぶことができるのに。

 

鑑賞 >>>

 遠江国(今の静岡県西部)の防人の歌。作者は、4325が、佐野郡(さやのこおり)の丈部黒当(はせつかべのくろまさ)、4326が同じ郡の生壬部足国(みぶべのたるくに)、4327が長下郡(ながのしものこおり)の物部古麻呂(もののべのこまろ)。

 4325の「草枕」は「旅」の枕詞。「花にもがもや」の「もがも」は願望、「や」は感動の助詞。「捧ごて」は「捧げて」の方言。4326の「殿」は宮殿で、父母を賛美し、その住家を宮殿と言ったもの。上3句は「ももよ」を導く序詞。「ももよ草」は未詳ながら、菊ではないかとする説が有力です。これには、菊は延暦16年(797年)、桓武天皇の御製にはじめて見えるものだから万葉時代に菊ははなかったとの説がある一方、『懐風藻』(天平勝宝3年:751年)の詩に、野生ではなく立派に栽培されていたらしい菊を詠んだものがあるという反論があります。かりに菊だとしても、この防人が故郷を発った季節に、その花が咲いていたかの疑問は残ります。「百代」は百年で、いつまでもの意。「いでませ」は、いらせられませの意。防人は21歳から60歳までの正丁から選ばれましたが、まだ子供のような独り身の青年たちも多かったようです。

 4327の「暇(いつま)」は「いとま」の方言。「もが」は願望。防人に指名されると、出発までの間に余裕がなく、肌身離さず持っていたい妻の絵姿を描けない嘆きを歌っています。窪田空穂は「防人に立つ年齢の者に、そうした嗜みのあったということは驚くに足りる」と言い、詩人の大岡信も、絵(原文では画)という文字に「衝撃でさえある事実を伝える」と言っています。