大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

天武天皇が崩御した時に皇后が作った歌・・・巻第2-159

訓読 >>>

やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ)の 夕(ゆふ)されば 見したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 神岳(かみをか)の 山の黄葉(もみち)を 今日(けふ)もかも 問ひたまはまし 明日(あす)もかも 見したまはまし その山を 振り放(さ)け見つつ 夕されば あやに哀しみ 明け来れば うらさび暮らし 荒栲(あらたへ)の 衣(ころも)の袖(そで)は 乾(ふ)る時もなし

 

要旨 >>>

わが大君の御魂は、夕方にはきっとご覧になっている、明け方にはきっとお尋ねになっている。生きておられたら、その神岳の山の黄葉を、今日もお尋ねになり、明日もまたご覧になられるだろうに、その山を振り仰いで見ながら、夕方になると言いようもなく悲しくなり、明け方になると心寂しく過ごし、粗い喪服の袖は乾く時もない。

 

鑑賞 >>>

 天武天皇14年(685年)晩秋のころに、天武天皇は病床に伏す身となりました。翌年の前半には小康を得たものの、5月24日に再び発病し、仏教の効験によって快癒が願われましたが、効果なく、9月9日に崩御しました。歌を詠んだ皇后(鵜野讃良皇后:うののさらのおおきさき)は、後の持統天皇になる人です。殯(もがり)の期間は長く、百官を率いて何度も儀式が繰り返し行われ、持統天皇2年(688年)11月に大内陵に葬られました。この歌は、天皇の遺体がまだ殯宮にあった時に、皇后が詠んだ歌です。

 なお、殯(もがり)の儀礼が何を目的に行われていたかについては定説がなく、①魂を体に戻すため(招魂)、②霊魂の浄化を行うため(浄化)、③荒ぶる魂を鎮めるため(鎮霊)などの説があります。殯の期間に歌われた歌としては、天智天皇の大殯の歌(巻第2-151~154)、草壁皇子の殯宮の時の挽歌(巻第2-167~169)、明日香皇女の殯宮の時の挽歌(巻第2-196~198)、高市皇子の殯宮の時の歌(巻第2-199~201)があります。

 天皇崩御は、秋深い黄葉の季節のことであり、飛鳥浄御原の皇居からほど近い「神岳の黄葉」を、天皇が深い関心を示されていた御形見と見ての、哀情極まる御歌となっています。「やすみしし」は「我が大君」の枕詞。「夕されば」は、夕方になると。「明け来れば」は、夜が明けてくれば。「神岳」は、明日香村にある雷丘(いかずちのおか)。「あやに」は、無性に、言いようもなく。「うらさび」は、心が楽しまない意。「荒栲の」は「衣」の枕詞。

 天武天皇在位中の皇后については、『日本書紀』に次のような記述があります。「始(はじめ)より今に迄(いた)るまでに、天皇を佐(たす)けまつりて天下(あめのした)を定めたまふ。毎(つね)に侍執(つかえまつ)る際(あいだ)に、輙言(すなわちこと)、政事(まつりごと)に及びて、たすけ補ふ所、多し」。天智天皇の第二皇女として生まれ、天智天皇の弟の大海人皇子天武天皇)の妻となり、夫と共に壬申の乱の苦難を乗り越えてきた皇后は、天武天皇崩御後に女性天皇となり、孫の文武天皇に譲位した後には、わが国初の太上天皇上皇)となりました。『日本書紀』は、持統天皇文武天皇に譲位するところで記述を終えています。

 

大海人皇子天武天皇)の略年譜

668年 中大兄皇子天智天皇として即位し、大海人皇子東宮となる(1月)
668年 蒲生野で、宮廷をあげての薬狩りが行われる(5月)
671年 天智天皇大友皇子太政大臣に任命(1月)
671年 天智天皇が発病(9月)
671年 天智天皇大海人皇子を病床に呼び寄せる(10月)
    大海人皇子はその日のうちに出家、吉野に下る
    大友皇子を皇太子とする
672年 天智天皇崩御(1月)、大友皇子が朝廷を主宰
672年 大海人皇子が挙兵(6月)、壬申の乱が勃発
672年 大友皇子が自殺(7月)
672年 飛鳥浄御原宮を造営
673年 大海人皇子天武天皇として即位(2月)
679年 6人の皇子らと吉野に赴き「吉野の誓い」を行う
681年 草壁皇子を皇太子に立てる(2月)
683年 大津皇子にも朝政を執らせる
686年 発病(5月)
686年 皇后と皇太子に政治を委ねる
686年 崩御(9月)