大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

東歌(14)・・・巻第14-3515~3516

訓読 >>>

3515
我(あ)が面(おも)の忘れむしだは国 溢(はふ)り嶺(ね)に立つ雲を見つつ偲(しの)はせ

3516
対馬(つしま)の嶺(ね)は下雲(したぐも)あらなふ可牟(かむ)の嶺(ね)にたなびく雲を見つつ偲(しの)はも

 

要旨 >>>

〈3515〉私の顔を忘れそうになったら、国中に湧きあふれて嶺に現れる雲、その雲を見ては、私のことを思い出してください。

〈3516〉対馬国の山には下雲がかからないので、可牟山にたなびいている雲を見ながらあの子を思い出そう。

 

鑑賞 >>>

 3515は、防人として旅立つ男に、その妻が贈った歌ではないかとみられ、3516は、防人として対馬長崎県対馬市)にいる東国の男の、3515に対する答えのようになっている歌です。

 3515の「忘れむしだは」の「しだ」は、時(とき)。「溢り」は「あふれ」。3516の「嶺に立つ」は、山の峰に現れる。「下雲」は低い雲。「あらなふ」の「なふ」は打消の東語。「可牟の嶺」は所在未詳で、対馬から見える筑前肥前の山か、あるいは「上の嶺」だとして、「低い雲がないので、上方にそびえる山にたなびいている雲を見ながら・・・」と解するものもあります。上の句からの流れでは、この解釈の方が自然であり、適当なもののように感じますが、いかがでしょうか。

 いずれにしても、雲に魂が宿るものと感じていたのか、あるいは、どんなに遠い地にあっても雲は同じように見られ、また、山の峰にかかる雲は不断に見られるところから、相手を偲ぶよすがとしていたようです。