大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

壬申の乱の平定せし以後の歌・・・巻第19-4260~4261

訓読 >>>

4260
大君(おほきみ)は神にしませば赤駒(あかごま)の腹這(はらば)ふ田居(たゐ)を都と成(な)しつ

4261
大君(おほきみ)は神にしませば水鳥(みづどり)のすだく水沼(みぬま)を都と成(な)しつ

 

要旨 >>>

〈4260〉大君は神でいらっしゃるので、赤駒さえも腹まで水に漬かる深田を、立派な都となさった。

〈4261〉大君は神でいらっしゃるので、水鳥が群がり騒ぐ水沼を、立派な都となさった。

 

鑑賞 >>>

 672年の壬申の乱で勝利した大海人皇子は、明日香浄御原で即位し、天武天皇となりました。ここの2首は、その宮廷の造営を、あたかも神のしわざであるかのように讃えたもので、4260は、壬申の乱の功臣、大伴御行(おおとものみゆき)の歌、4261は作者未詳歌です。左注に、天平勝宝4年(752年)2月2日に大伴家持が某人から聴取してここ(巻第19)に載せるとの記載があります。歌からは、奈良盆地の水系の出口は大和川のみで、その中心部は、馬が腹まで漬かって耕作するほどの湿地帯だったことが分かります。

 天武天皇は、新たな王朝の創始者にふさわしい偉大な天皇として、人々から畏敬されました。その理由の第一は、父母ともに天皇(父は舒明天皇、母は皇極/斉明天皇)という貴種中の貴種であったこと、第二は、壬申の乱では、わずかか30人ほどで吉野を発ち、たちまち強大な軍事力を得て1か月の短期間で勝利した英雄であること、そして第三は、政権の運営にあたっては一人の大臣も置かず、皇后をはじめとする皇親の補佐のみで権力をふるったことにあります。そのような認識を背景に、この時代に天皇の神格化が急速に進んでいくことになります。

 なお、『竹取物語』に登場する「大納言大伴の御行」は、4260の作者の大伴御行をモデルにしているといわれています。

 

明日香浄御原宮

 7世紀後半の天皇である天武天皇持統天皇の2代が営んだ宮。奈良県明日香村飛鳥に伝承地がありますが、近年の発掘成果により、同村、岡の伝飛鳥板蓋宮跡にあったと考えられるようになっています。『日本書紀』には浄御原宮の殿舎として、新宮(にいみや)・旧宮(ふるみや)のほか、大極殿、大安殿(おおあんどの)、内安殿(うちのあんどの)、外安殿(とのあんどの)・向小殿(むかいのこあんどの)、西庁(にしのまつりごとどの)などがみえます。