大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

高橋虫麻呂が珠名娘子を詠んだ歌・・・巻第9-1738~1739

訓読 >>>

1738
しなが鳥 安房(あは)に継ぎたる 梓弓(あづさゆみ) 末(すゑ)の珠名(たまな)は 胸別(むなわけ)の ひろき吾妹(わぎも) 腰細の すがる娘子(をとめ)の その姿(かほ)の 端正(きらきら)しきに 花の如(ごと) 咲(え)みて立てば 玉桙(たまほこ)の 道行く人は 己が行く 道は行かずて 召(よ)ばなくに 門(かど)に至りぬ さし並ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻(おのづま)離(か)れて 乞(こ)はなくに 鍵さへ奉(まつ)る 人皆の かく迷(まと)へば 容艶(かほよ)きに よりてそ妹は たはれてありける

1739
金門(かなと)にし人の来(き)立てば夜中(よなか)にも身はたな知らず出(い)でてそ逢ひける

 

要旨 >>>

〈1738〉安房に続く末(周淮)に住んでいたという珠名は、胸が大きく、すがる蜂のように腰の締まった娘だった。その姿は輝くばかり、花のように笑って立っていると、道行く男たちは自分の行くべき道は行かずに、呼びもしないのに、珠名のところに来てしまう。家続きの隣の男は、前もって自分の妻と別れて、頼みもしないのに家の鍵を珠名に預けた。男という男がみなこのように心を迷わしたので、珠名の容貌はますます艶やかとなり、しなしなと誰彼となく浮かれ耽っていたという。

〈1739〉門口に男がやって来て呼べば、夜中でも、自分の評判などお構いなく出ていって、逢っていたことだ。

 

鑑賞 >>>

 上総(かみつふさ)の末(すえ)の珠名娘子(たまなおとめ)を詠んだ歌と短歌。「上総」は、今の千葉県中部一帯。7世紀後半に総(ふさ)の国が二分され、南半分が上総となりました。「末(周淮)」は上総国の郡名で、富津市や君津市の一帯。珠名娘子は、その地の伝説の美女とされます。人名の後の「な」は、愛称と見られます。この歌では、珠名の容貌を、胸が豊かで蜂のようにくびれた腰のグラマラスな美女であったといい、女性の肉体の豊満さをここまで赤裸々に賛美した表現は、『万葉集』中はもちろん、その後の日本の詩歌にも類例がありません。

 1738の「しなが鳥」は、鳰鳥(におどり)の古名かともいわれ、「安房」の枕詞。かかり方未詳。「安房」は、上総国の南隣の国名。「梓弓」は、立てた時の下を本(もと)と言い、上を末(すえ)と言うところから「末」の枕詞。「胸別のひろき吾妹」は、豊かな胸をした可愛い女。「すがる」は、ジガ蜂で、腹部が細いのが特徴。「端正しき」は、非の打ち所がないさま。「咲みて」は、微笑んで。「立てれば」は、立っていると。「玉桙の」は「道」の枕詞。玉桙は、里の入り口や辻に立てられた陽石とする説、玉桙のちぶりの神、すなわち旅の安全を守る石神とする説があります。「己が行く道は行かずて」は、自分の行くべき道は行かずに。「召ばなくに」は、招きもしないのに。「さし並ぶ」は「隣」の枕詞。「己妻離れて」は、自分の妻と離別して。「乞はなくに」は、要求したわけではないのに。「奉る」は「与える」の敬語。「容艶きに」は原文「容艶」で「かほにほひ」「うちしなひ」などと訓むものもあります。「たはれて」は、放逸な性的関係を結ぶこと。

 1739の「金門」は、門。「身はたな知らず」の「たな」は、すっかり、まるっきりの意で、自分の評判などお構いなく、自分自身のことは全く弁えないで。「逢ひにける」の「逢ふ」というのは、この時代は性的な交わりを持つことを意味していました。「見る」も同様で、場合によっては「語らふ」もそれを意味するものでした。従って、珠名娘子は男たちの誘いを迷惑がるどころか、夜中でも男が来ると積極的に応えてくれたというのです。しかし、長歌の末尾の「たはれてありける」と、ここの「身はたな知らず」という句からは、表面的には、作者の珠名娘子の生き方に対する否定的な態度が窺えるところです。

 このような民間の営みにおける一事象を捉えて純叙事的に扱った長歌は、それまでの長歌の歴史上にはなかったことであり、高橋虫麻呂によって創始されたものとされます。とはいえ、あくまで虫麻呂の興味によってのものであり、特段の企図はなく、純粋な詩的衝動にかられての作と見られています。窪田空穂は、珠名娘子の表現について、「道行き風の言い方で末の珠名を捉え、『胸別の広き吾妹 腰細のすがる娘子』という、文献にはかつて見ない、全くその土地から生まれた語をもって、一美女を簡潔に、具体的に浮かび上がらせ、『花の如咲みて立てれば』というきわめて魅力的な語で、その娘子の行動のほとんど全部としようとしている。これは比類のない描写力である」と評しています。

 虫麻呂の長歌は2種類に分けられ、一つは伝説等に取材したもの、もう一つは眼前嘱目の事象に取材したものです。ここの歌は前者のもので、珠名娘子の評判をひたすら詩の形で記録しています。作者自身の主観的な感想などはいっさい表明しておらず、それがかえって娘子の存在と淫奔ぶりを鮮明に浮き上がらせています。また、長歌の形式を用いてこのあざやかな風俗模様を描き上げた手腕は、まさに虫麻呂の真骨頂というべきです。なお1738以下の歌23首はすべて『高橋虫麻呂歌集』から採られており、『高橋虫麻呂歌集』は現存しないため、虫麻呂以外の歌も収められていた可能性もありますが、この23首は歌の内容や特徴などから、すべて本人の作と考えられています。

 

 高橋虫麻呂(生没年不明)は、藤原宇合(ふじわらのうまかい、不比等の3男)が常陸守だった頃に知遇を得、その後も宇合に仕えた下級官人といわれます。帰京後は、摂津・河内・難波などにも出かけており、自編と推定される『高橋虫麻呂歌集』の名が万葉集の中に見えます。常陸国の役人時代には、『常陸国風土記』の編纂に加わったとの見方もあります。『万葉集』には30首あまりが入集しており、人麻呂などの宮廷歌人とは違い、天皇賛歌や皇族の挽歌などよりも、旅先での景色や人の営みなどを詠んだ歌が多くあります。

 ただし、これらの旅は決して物見遊山の旅だったわけでなく、あくまで重要な官命や用向きを帯びての旅であったと考えられます。とくに、常陸守だった時の藤原宇合は単に国守としてではなく、安房・上総・下総の3国を統括する按察使にも任命されていました。按察使というのは、国司の上に置いて、人民を掌握し、律令行政を辺境の末端まで浸透させる役目を負う監督官のことで、唐の制度に倣って新設されました。当時、問題化しつつあった蝦夷対策という意味合いもあったのでしょう。虫麻呂の歌に、常陸以外の東国諸国の地名が登場するものが多いのは、按察使である宇合に随行、あるいは連絡役など何らかの役目によって各地を往来したためだといわれます。

 

 

高橋虫麻呂の伝説歌について

窪田空穂の評論から――

 虫麻呂の伝説歌のおもなるものは、「水江の浦島の子を詠める歌」「菟原処女の墓を見る歌」「勝鹿の真間娘子を詠める歌」などで、その取材の異なるに従ってその色合いが著しく異なり、自在に変化しうる才分のほどを思わせられるのであるが、基本的には一貫したところをもっている。これはそれらの事蹟のあった地に行き、形見となるべき何ものかを親しく見ることによって感を発したとすること、ついでその事蹟を言うに、事蹟そのものをのみ取り上げてこれを細叙することをせず、事蹟の与える気分を主とし、その気分を通して事境を言おうとすることである。したがってその結果としての作品は、一方では現実性をもったものとなるとともに、作者の気分を濃厚にあらわしたものとなるのである。すなわち、事は印象描写的な簡潔なものとなり、その印象は著しく感覚的な、華やかに生趣豊かなものとなっているのである。名は伝説歌であるが、その伝説は虫麻呂に感じられ、また生かされた、虫麻呂の伝説歌となっているのである。ここにその魅力があるのである。現実と気分を渾融させるこの詠み方は、ひとり虫麻呂のみのものではなく、奈良朝時代の共通な詠み方で、虫麻呂はそれを高度にもち得たのである。

 虫麻呂の伝説歌は、興味よりのもので、他に思う所があってのものではない。この興味は眼前矚目の事象に展開してゆき、「筑波嶺に登りて嬥歌会をする日作れる歌」「上総の末の珠名娘子を詠める歌」などとなって、その魅力よりいえば伝説歌に勝るものとなっている。さらにまた、自身の直接抒情である「河内の大橋を独り去く娘子を見る歌」のごときは、その味わいの純粋に清新な点で、長歌という形式の持ち易く離れ難いものにしている古典臭を全く払拭し、虫麻呂自身のものとして生み出した長歌ともいうべき趣をもっている。このことは同時にまた、虫麻呂の長歌全体にわたっても言いうることなのである。

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

高橋虫麻呂の歌(索引)