大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

鹿のために痛みを述べて作った歌・・・巻第16-3885

訓読 >>>

いとこ 汝背(なせ)の君 居(を)り居(を)りて 物にい行くとは 韓国(からくに)の 虎(とら)といふ神を 生け捕りに 八(や)つ捕り持ち来(き) その皮を 畳(たたみ)に刺(さ)し 八重畳(やへたたみ) 平群(へぐり)の山に 四月(うづき)と 五月(さつき)との間(ま)に 薬狩(くすりがり) 仕(つか)ふる時に あしひきの この片山に 二つ立つ 櫟(いちひ)が本(もと)に 梓弓(あづさゆみ) 八(や)つ手挟(たばさ)み ひめ鏑(かぶら) 八(や)つ手挟(たばさ)み 鹿(しし)待つと 我(わ)が居(を)る時に さ雄鹿(をしか)の 来立ち嘆かく たちまちに 我(われ)は死ぬべし 大君(おほきみ)に 我(われ)は仕(つか)へむ 我(あ)が角(つの)は み笠(かさ)のはやし 我(あ)が耳は み墨壺(すみつほ) 我(あ)が目らは ますみの鏡 我(あ)が爪は み弓の弓弭(ゆはず) 我(あ)が毛らは み筆(ふみて)はやし 我(あ)が皮は み箱の皮に 我(あ)が肉(しし)は み膾(なます)はやし 我(あ)肝(きも)も み膾はやし 我(あ)がみげは み塩(しほ)のはやし 老(お)いはてぬ 我(あ)が身一つに 七重(ななへ)花咲く 八重(やへ)花咲くと 申(まを)しはやさね 申しはやさね

 

要旨 >>>

 さあ、そこのすてきな旦那さん、いつもお家にいらっしゃるのに、どこかにお出かけになるなんて、からっきし億劫なもの。その韓(から)の国の虎という怖い神様を、八頭も捕らえて持ち帰り、その皮を畳のように敷物に織って八重の敷物になさる、その八重に畳み重なる平群の山で、四月から五月にかけて薬狩りの行事があり、ご奉仕申し上げた次第。山の斜面に二本立っている櫟の木の根元で、八本の弓矢を構え、ひめ鏑を八本掴んで、鹿を待ってたら、ひょこっと雄鹿がやってきて嘆くのだ。私は射られてもうすぐ死ぬはずの身。どうせ死ぬなら大君のお役に立ちたい。私の角は御笠の飾り、私の耳はお墨を入れる壺、私の目は澄んだ鏡、私の爪は弓弭、私の毛はお筆の材料、私の皮はお箱の皮に、私の肉はお膾の材料、私の肝もお膾の材料、私の胃袋は塩辛の材料。老い果てた私の身一つに、七重にも花が咲いた、八重にも花が咲いたことよと、大君に申し上げてほめてやってください、申し上げてほめてやってください。

 

鑑賞 >>>

 「乞食者(ほかいびと)が詠ふ歌」と題された1首目で、「鹿のために痛みを述べて作った歌」と左注にあります。「乞食者」がどんな人を指すのかについては、古来議論がなされ、文字通りの乞食という意味ではなく、芸を売る見返りに食を得ていた、芸能民の類だろうというのが有力説となっています。さらに、天皇のお役に立ち、奏上申し上げるという祝言の歌の形式(寿歌)になっているところから、お祝いの席でいつも詠まれる歌ではなかったかとする見方もあります。

 歌の内容は、死を目前にした鹿が、みずからの体の各部分について、その用途を逐一述べ立てており、そうして天皇のお役に立つことを自分に代わって奏上し、ほめてやってください、と乞食者に懇願しているものです。その鹿に乞食者が扮し、鹿の身振りで演技しながら詠じたのかもしれません。

 この歌が作られたのは飛鳥時代だったろうと考えられており、天武・持統朝を中心に、古代天皇制が隆盛をきわめた時代でした。天皇が「現(あき)つ神」として意識された時代であり、天皇のために死ぬことが無上の歓びだとする思想が、この歌の根本にあります。しかしながら、左注には「鹿のために痛みを述べて」作った歌とあり「寿歌」というような捉え方はなく、この注釈を付けたであろう奈良時代の人の意識とは、大きな懸隔があることが窺えます。

 「汝背の君」は、相手を親しんでの呼びかけ。聴衆あての表現。「居り居りて物にい行くとは」は「辛(から)し」を起こし、「韓国(中国・朝鮮)」を導く序詞。さらに「韓国~畳に刺し」が「八重畳」の序詞。「八重畳」は「平群」の枕詞。「平群の山」は、奈良県生駒市の南部から生駒郡平群町にかけての山地で、これ以下が本題。「薬狩」は、薬用に鹿の生え変わったばかりの角などを採る宮廷行事。「ひめ鏑」は、鏑矢の一種。「嘆かく」は、嘆くことには。「たちまちに」以下が、鹿の言葉。「みげ」は胃袋。「申しはやさね」の「はやす」は、褒め讃える。