訓読 >>>
4262
唐国(からくに)に行き足(た)らはして帰り来(こ)むますら健男(たけを)に御酒(みき)奉(たてまつ)る
4263
櫛(くし)も見じ屋内(やぬち)も掃(は)かじ草枕(くさまくら)旅行く君を斎(いは)ふと思ひて
要旨 >>>
〈4262〉唐国に行かれて、十分に任務を果たして帰って来られる立派な男子に、御酒を捧げます。
〈4263〉櫛も使いますまい、家の中も掃きますまい。旅行くあなたの無事をお祈りして。
鑑賞 >>>
天平勝宝4年(752年)閏三月に、衛門督(えもんのかみ)大伴古慈悲宿祢(おおとものこじひすくね)の家で、入唐副使の大伴胡麻呂宿祢(おおとものこまろすくね)らを餞する歌。「衛門督」は、宮中の諸門を守る衛門府の長官。大伴古慈悲は、藤原不比等の女を妻にした人で、禁固・配流の刑などの転変を経て従三位で没しました。
大伴胡麻呂は、遣唐副使として渡唐し、天平勝宝6年(754年)に帰朝しました。ずいぶん気骨のあった人のようで、渡唐後の使臣が集まる謁見の場で、新羅より日本の席が下位にあるのに強く抗議して席を交換させたという逸話が残っています。また、帰朝に際して唐僧の鑑真を伴ったのも胡麻呂でした。
この時の遣唐大使は、光明皇后の甥の藤原清河で、清河は帰りの渡航に失敗して帰国を果たすことができませんでしたが、副使の大伴胡麻呂は、失敗を重ねながらも何とか帰国。しかし、3年後に起きた橘奈良麻呂の乱に加担した罪で捕らえられ獄死してしまいます。帰国できなかった清河が唐で生き永らえたのに対し、帰国した胡麻呂はわずか3年後に政争(橘奈良麻呂の乱)に敗れて殺されてしまうという、何とも皮肉な結果に至りました。
4262は、多治比真人鷹主(たじひのまひとたかぬし:伝未詳)の歌。彼もまた、橘奈良麻呂の乱で胡麻呂と運命を共にした人です。「足らはす」は、十分にする。「ますら健男」は、立派な男子。4263は、左注に大伴宿祢村上と同清継らが伝誦したとあり、元々は女性の歌だったかもしれません。「草枕」は「旅」の枕詞。「斎ふ」は、禁忌を守って吉事を祈ること。