大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

東歌(18)・・・巻第14-3368~3371

訓読 >>>

3368
足柄(あしがり)の土肥(とひ)の河内(かふち)に出(い)づる湯の世(よ)にもたよらに児ろが言はなくに

3369
足柄(あしがり)の麻万(まま)の小菅(こすげ)の菅枕(すがまくら)あぜか枕(ま)かさむ児ろせ手枕(たまくら)

3370
足柄(あしがり)の箱根(はこね)の嶺(ね)ろのにこ草の花妻(はなづま)なれや紐(ひも)解かず寝(ね)む

3371
足柄(あしがり)の御坂(みさか)畏(かしこ)み曇(くも)り夜(よ)の我(あ)が下(した)ばへをこち出つるかも

 

要旨 >>>

〈3368〉足柄の土肥の河内に絶えず湧く湯のように、あの娘は、愛情がゆらぐ気持ちを少しも洩らしたわけではないのだ。

〈3369〉足柄の麻万の小菅で作った菅枕、どうしてそんなものを枕にしているのか。愛しい子よ、私の手を枕にしなさい。

〈3370〉足柄の箱根の山のにこ草のような柔らかい花(新婚の妻)なのか、そうではないのに、下紐を解かずに寝ようとするのか。

〈3371〉足柄の神の御坂の恐れ多さに、曇り夜のような私の秘めた思いを、とうとう言葉に出してしまった。

 

鑑賞 >>>

 相模の国(神奈川県)の歌。3368の「足柄(あしがり)」は、足柄の方言的発音。ただし東歌に8例ある「足柄」のうち5例が「あしがり」、3例が「あしがら」であり、防人歌にある3例はすべて「あしがら」であることから、当時は両方通用していたとみられます。上3句は「たよらに」を導く序詞。「土肥」は、湯河原谷。後に鎌倉幕府で重きをなした土肥一族の出身地です。「河内」は、水流をはさんだ一帯の地のことで、「土肥の河内」は、今の湯河原温泉の地にあたります。「出づる湯の」は、湧き出る湯のように。上3句は「たよらに」を導く序詞。「世にも」は、決して、断じての意で、下の「言はなく」にかかります。「たよらに」は、揺れ動いて定まらないさま。「児ろ」の「ろ」は、接尾語。相手の愛情の確かさを喜んでいるようでいて、実は不安の心が歌われています。また、温泉の湧き出る様子を歌った珍しい歌です。

 湯河原温泉は明治期までは自噴泉であり、際立った景勝地ではなく僻地でもあることから、それほど賑わってはいませんでした。万葉の時代も湯治場として有名というわけではなかったと考えられることから、この歌は湯治客のものではなく、出湯のゆらめきに恋の行方を案じる土地の男子の微妙な心理を映し出したもののようです。

 3369の「麻万」は、地名とする説と「崖」の意とする説があります。「足柄」というかなり広い地名のすぐあとに「崖」と続くのもどうかと思われるので、「葛飾の真間」のように地名とすべきかとも考えられます。「あぜ」は、なぜ、どうしての東国方言。「菅枕」は、菅を編んで作った枕。「枕かさむ」は「枕かむ」の敬語。「児ろせ」の「ろ」は接尾語、「せ」は動詞「す」の命令形。「愛しい子よ、しなさい、私の手枕を」。

 3370の「箱根の嶺ろ」の「ろ」は、接尾語。上3句は「花妻」を導く序詞。「にこ草」は、生え始めたばかりの柔らかい草、またはハコネシダ。「花妻」の原文は「波奈都豆麻」で「花つ妻」となりますが、字余りにする必要のない場合であり、誤って入った不要の文字だとする見方があります。花だけで実のない妻で、新婚初夜の初々しく恥らっている妻、あるいは月の障りや神を祀る期間にある妻の意などと説明されます。閨中で男が女に言っている歌で、下紐を解かず情事に応じようとしない女をなだめています。

 3371の「足柄の御坂」は、相模国から駿河国へ越える足柄峠。急峻な坂として恐れられ、そのため神のいます坂とされたようです。この時代、東国から西の方に行くには、東山道なら碓氷の坂(碓氷峠)、東海道なら足柄の坂(足柄峠)のいずれかを越えて行かねばならず、箱根路が開かれるのは後の時代のことです。「曇り夜の」は「下ばへ」の枕詞。「下ばへ」は、心の中の秘密。「我が下ばへ」は、心の底に隠したる人すなわち恋人あるいは妻の名前だろうとされます。「こち出つる」は、言葉に出す。古代、名は人そのものと等しいと考えられて大切にされ、恋人の心身を他人に奪われてはならないのと同様、恋人の名前も他人に打ち明けてはならないのでした。作者がその名を口にしたのは、恋しさのためではなく、恐ろしい坂を無事に通してもらうための神への贖祈(あがこい)だったのでしょう。

 東歌には、大きな地名に小さな地名を重ねた言い方をしているものが数多く見られます。ここの「足柄の」で始まる歌もそうですし、他にも「上つ毛野伊香保の沼」「葛飾の真間」「信濃なる千曲の川」「足柄の刀比」「鎌倉の見越の崎」など、くどいとも言える地名表現が多々あります。地元の人たちが詠む歌の物言いとしてはかなり不自然であり、いかにも説明的であるところから、中央の関係者によって手が加えられたものと想像できます。

 

 

 

万葉時代の幹線道路

 大化改新の詔によって、畿内および山陽道で駅路や駅家(うまや)が整備され、680年までには、筑紫の大宰府から関東に至るまでの広範囲にわたって、幹線道路が敷設されました。『大宝令』には、大路として山陽道、中路として東海道東山道、その他小路が、また『延喜式』には、七道駅路、すなわち、東海道東山道北陸道山陰道山陽道南海道、西国道が記されています。天平18年(746年)に大伴家持越中国守として、現在の富山県高岡市に赴任していることから、この頃までには、北陸道も整備されていたとみられます。

『万葉集』掲載歌の索引

「東歌」について