大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

久邇の新京を讃むる歌・・・巻第6-1050~1052

訓読 >>>

1050
現(あき)つ神 我(わ)が大君(おほきみ)の 天(あめ)の下 八島(やしま)の(うち)に 国はしも さはにあれども 里はしも さはにあれども 山並(やまなみ)の 宜(よろ)しき国と 川なみの 立ち合ふ里と 山背(やましろ)の 鹿背山(かせやま)のまに 宮柱(みやばしら) 太敷(ふとし)き奉(まつ)り 高知(たかし)らす 布当(ふたぎ)の宮は 川近み 瀬の音(おと)ぞ清き 山近み 鳥が音(ね)響(とよ)む 秋されば 山もとどろに さを鹿(しか)は 妻呼び響め 春されば 岡辺(おかへ)も繁(しじ)に 巌(いはほ)には 花咲きををり あなおもしろ 布当(ふたぎ)の原 いと貴(たふと) 大宮所(おほみやどころ) うべしこそ 我(わ)が大君(おほきみ)は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮ここと 定めけらしも

1051
三香(みか)の原 布当(ふたぎ)の野辺(のへ)を清みこそ大宮所さだめけらしも

1052
山高く川の瀬 清(きよ)し百世(ももよ)まで神(かむ)しみ行かむ大宮所

 

要旨 >>>

〈1050〉現人神でいらっしゃるわれらが大君が治めていらっしゃる天の大八島国の中には、多くの国々や多くの里がある。中でも山並みがよろしく、川の流れが集まってくる里とて、山城の鹿背山のふもとに、高々と立派な宮柱を立てられてお作りになった布当の宮は、川が近くて瀬の音が清らかであり、山が近くて鳥の鳴き声が響き渡る。秋になると、山もとどろくばかりに牡鹿が妻を呼び求めて鳴き叫び、春になると、岡の周辺いっぱいに、岩と岩の間に花々が咲き乱れる。なんとすばらしい、布当の原は本当に貴い、この大宮所の地は。だからこそ、われらの大君は臣下からお聞きになって、輝く大宮をここと決められたのだろう。

〈1051〉三香の原の布当の野辺が清らかだからこそ、ここを大宮の地とお定めになったのだろう。

〈1052〉山は高く、川の瀬は清らかで、百年の後までも神さびて栄えていくだろう、この大宮所よ。

 

鑑賞 >>>

 田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の「久邇(くに)の新京を讃(ほ)むる歌」。恭仁宮(久邇宮)は、天平13年(741年)の9月に左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定されました。平城京から大極殿を移築し、大宮垣や宮殿を造り、条坊地割りも行われ、木津川には大きな橋が架けられました。しかし、都としては完成しないまま天平15年(743年)の末にはこの京の造営は中止されました。

 「山背」は京都府南部。「鹿背山」は京都府木津市にある山。「布当の宮」は恭仁京の宮殿。「さす竹の」は「大宮」の枕詞。「三香の原」は京都府木津川市加茂町とその周辺の瓶原(みかのはら)盆地。

 田辺福麻呂は『万葉集』末期の官吏で、天平 20年 (748年) に橘諸兄の使いとして越中国におもむき、国守の大伴家持らと遊宴し作歌しています。そのほか恭仁京難波京を往来しての作歌や、東国での作もあります。柿本人麻呂山部赤人の流れを継承するいわゆる「宮廷歌人」的な立場にあったかとされますが、橘諸兄の勢力退潮と呼応するかのように福麻呂の宮廷歌は見られなくなっています。『万葉集』に44首の歌を残しており、そのうち「田辺福麻呂の歌集に出づ」とある歌も、用字や作風などから福麻呂の作と見られています。