大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

磐代の浜松が枝を引き結び・・・巻第2-141~142

訓読 >>>

141
磐代(いわしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた還(かへ)り見む

142
家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕(くさまくら)旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

 

要旨 >>>

〈141〉自分はこのような身の上で磐代まで来たが、いま浜辺に生えている松の枝と枝を引き結んで幸を祈って行く。もし無事であることができたら再び帰ってきてこれを見よう。

〈142〉家にいるときはいつも食器に盛っていた飯を、今は旅の途上であるので、椎の葉に盛っている。

 

鑑賞 >>>

 有間皇子が「自らを傷みて松が枝を結ぶ」とある歌2首です。有馬皇子は孝徳天皇の皇子で、皇位継承の有力な資格者でしたが、654年に孝徳天皇崩御すると、655年に即位したのは、孝徳天皇の姉であり、中大兄皇子の母である斉明天皇皇極天皇重祚)でした。政治の実権を握っていたのは中大兄皇子であり、皇位をスムーズに引き継ぐためには、有間皇子は除いておきたい人物だったのです。そんな中の658年、皇子は、斉明天皇と皇太子・中大兄皇子が紀の湯に行幸中に謀叛を企てたとして捕えられます。留守役の蘇我赤兄(そがのあかえ)にそそのかされたもので、中大兄と赤兄によって仕組まれた罠だったとされます。

 有間皇子は、斉明天皇中大兄皇子が滞在していた紀の湯に連行され、これらの歌は、その途中の磐代(和歌山県日高郡岩代)で詠んだ歌です。磐代は、熊野詣での際に初めて南紀の海岸線に達する地です。皇子は、自分の身を嘆き悲しみ、松の枝と枝とを引き結びました。松の枝や草を結ぶのは、無事や幸いを祈る呪術であり、熊野へ至る道の境にある磐代では、多くの旅人(たびびと)が旅の安全を祈り、結びの呪術をする習慣がありました。また、「結ぶ」というのは魂の一部を結び込める祈りの行為でもあり、今でも神社のおみくじを木の枝に結ぶのはその名残だといいます。

 2首目は旅先の不自由さを詠んだとも、飯を神に供えて祈ったともいわれます。笥(物を入れる器)に飯を盛って道祖神に捧げまつるのもまた、古代日本人の神に対する信仰でした。神に対し、捕らわれの身のため椎の葉に盛った飯でお許しくださいと言っているのでしょうか。このとき皇子は、皇太子の訊問に対して申し開きができるものと信じていたのかもしれません。しかし結局、中大兄の訊問を受けた帰りに、有馬皇子は、股肱の臣だった塩屋連鯏魚(しおやのむらじこのしろ)らと共に藤白坂(海南市藤白)で絞首刑に処せられます。謀叛とはいえ、これといった何の行動にも結びつかないままの、悲劇の結末でした。享年19歳。

 中大兄は、それまでも兄の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を攻め殺し、義父の蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)を自害に追い込むなど非情さには定評があり、若い有馬皇子を葬り去ることなど造作なかったに違いありません。しかしながら、有馬皇子の悲劇は、後の多くの人々の共感を呼び、柿本人麻呂長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)、山上憶良も皇子を偲ぶ歌を詠んでいます。

 ちなみに、有間皇子を陥れた蘇我赤兄は、中大兄皇子天智天皇)に重用されたものの、672年の壬申の乱で敗れて捕らえられ、流罪に処されました。