大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

我妹子が結ひてし紐を・・・巻第9-1787~1789

訓読 >>>

1787
うつせみの 世の人なれば 大君(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み 敷島(しきしま)の 大和の国の 石上(いそのかみ) 布留(ふる)の里に 紐(ひも)解かず 丸寝(まろね)をすれば 我が着たる 衣はなれぬ 見るごとに 恋はまされど 色に出でば 人知りぬべみ 冬の夜の 明かしもえぬを 寐(い)も寝ずに 我れはぞ恋ふる 妹が直香(ただか)に

1788
布留山(ふるやま)ゆ直(ただ)に見渡す都にそ寝(い)もねず恋ふる遠からなくに

1789
我妹子(わぎもこ)が結(ゆ)ひてし紐(ひも)を解かめやも絶えば絶ゆとも直(ただ)に逢ふまでに

 

要旨 >>>

〈1787〉自分は人間世界の者だから、そこをお治めになる天皇の仰せをかしこみ、家を離れ大和の里にある石上の辺、布留の里へ出かけていき、ただ一人下袴の紐も解かずごろ寝をしているために、着ている衣はよれよれになってしまった。見る物さわる物すべてにつけて、家族への思いが募るけれども、顔色に出たら人が悟ると思い、冬の夜が明けないように打ち明けずに寝ることもしないで、愛しい人の傍ばかりを焦がれている。

〈1788〉布留の山からまっすぐに見渡せる都にいる妻に焦がれて夜も眠れない。それほど遠くはないのに。

〈1789〉私の妻が結んだ衣の紐を、解きなどしようか、切れるなら切れるまで。じかに逢うまでに。

 

鑑賞 >>>

 笠金村の歌。題詞に「天平元年(729年)冬12月の歌」とあり、班田使として畿内を巡る旅を続けていた時の歌とされます。班田使とは、律令制において班田収授を行うために、京及び畿内諸国に派遣された官人をさします。「布留の里」は、いまの天理市から石上神宮にかけての地。都からごく近距離ですが、帰宅できず、長期にわたって任務に携わらなければなりませんでした。

 天平元年という年は、時の政権を担っていた長屋王が失脚・自殺する事件があり、また、藤原光明子立后という出来事があった、まさに激動の一年でした。ところが『万葉集』中の同年の歌には、12月に始動した班田事業を詠み込んだものが多く見受けられ、異彩を放っています。葛城王(後の橘諸兄)などもその任にあたっており、まさに官人総動員体制で行われたものの、荘園の所有者や耕作人たちの抵抗が大きく、新たな土地の確保に苦労するなど、その任務は過酷を極めたといいます。律令官人とその家族にとっては、とりわけ強い印象を残す出来事だったとみえます。

 1787の「うつせみの」は「世」の枕詞。「敷島の」は「大和」の枕詞。「丸寝」は、着物を着たまま寝ること。「衣はなれぬ」の「なれぬ」は、よれよれになった。「人知りぬべみ」人が気付いてしまうだろうから。「直香」は、その人の実体、あるいは、それしかないそのものから漂い出る霊力、じかに感じられる雰囲気の意。1788の「布留山ゆ」の「布留山」は石上神社の東方の山。「ゆ」は、動作の起点。「なくに」は、ないのに。1789の「やも」は反語。