訓読 >>>
赤駒(あかごま)を山野(やまの)に放(はか)し捕(と)りかにて多摩(たま)の横山(よこやま)徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ
要旨 >>>
赤駒を山野に放ってしまって捕えかね、夫に多摩の山並みを歩いて行かせることになるのかしら。
鑑賞 >>>
武蔵国の防人の妻の歌。「赤駒」は茶褐色の毛色の馬。「捕りかにて」の「かにて」は「かねて」の方言。「多摩の横山」は東京都府中市の南に連なる丘陵。
この歌からは、作者の家が馬を飼えるほどの暮らしぶりであったことが窺えます。防人に徴発されたのは、食うや食わずの貧窮の農民というよりは、なるべく生活にゆとりのある層が選抜されたとみられます。これは農村の崩壊を避けるためで、最近の研究では、かなりの部分は豪族層だっただろうといわれるようになっています。
軍防令による兵役義務
大宝令における「軍防令」の規定では、正丁(21歳から60歳までの男子)は3人に1人の割合で兵役につくものと定められていました。
兵士たちは各国に置かれた軍団に入り、その人員は普通1000人で、約1か月の訓練を受けました。租、庸、調、雑、徭などの課税のほかに、この兵役は農民にとって苦しいものでしたが、それでも、これは国元でのことであり、もっと辛い役割がありました。
それは遠い都に遣られる衛士と、さらに遠方の九州につかわされる防人です。衛士は、天皇の護衛隊のことで、五衛府に属して宮門の整備や雑役に当り、任期は1年。防人の任期は3年でした。
兵士の全員が衛士や防人になったわけではなく、中央政府から提供を命じられた国司が、正丁の中から該当者を選抜しました。任命の対象から外されたのは、父子、兄弟の間から既に兵士が出ている者、父母が高齢だったり病気だったりした者のほか、その家に当該者以外の成年男子がいない場合などでした。
防人の任期は3年とされましたが、それは任地に着いてからの計算で、任地に着くまでの何か月かは含まれていませんでした。