訓読 >>>
2389
ぬばたまのこの夜(よ)な明けそ赤らひく朝(あさ)行く君を待たば苦しも
2390
恋するに死(しに)するものにあらませば我(あ)が身は千(ち)たび死に返(かへ)らまし
2391
玉かぎる昨日(きのふ)の夕(ゆふへ)見しものを今日(けふ)の朝(あした)に恋ふべき
2392
なかなかに見ざりしよりも相(あひ)見ては恋しき心(こころ)増して思ほゆ
要旨 >>>
〈2389〉今宵はこのまま明けないで欲しい。朝に帰ってしまう人を、また夕方までお待ちするのは辛い。
〈2390〉恋の苦しみで人が死ぬと決まっているなら、私なんか、千度も繰り返し死んでいる。
〈2391〉昨日の晩に逢ったばかりなのに、今朝には、もうこんなに恋い焦がれているなんて、こんなことがあってよいものか。
〈2392〉なまじっか逢わなければよかった。逢ってからというもの、恋しさが増して仕方がない。
鑑賞 >>>
『柿本人麻呂歌集』から「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」4首。2389の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「この夜な明けそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「赤らひく」は、赤色を帯びる意で「朝」にかかる枕詞。妻の歌で、夫の来ている夜の明け方に訴えているものです。5句中2句を枕詞が占めていて煩わしいようですが、斎藤茂吉は「うるさいようだが、決してそうではなく、よく調和がとれているように思える。単に意味の上からのみでなく、声調上から味わうと、この歌などは注意していいと思う」と述べています。
2390の「千たび死に返る」の「死に返る」は、死を繰り返す意。この表現は、中国唐代に書かれた恋愛小説『遊仙窟』の「功ク王孫ヲシテ千遍死ナシメム」が典拠で、絶え間のない恋の苦しさを誇張しています。「ませば~まし」は、反実仮想(もし・・・だったら~だろうに)。笠女郎が大伴家持に贈った歌に「思ふにし死にするものにあらませば千たびぞ我れは死に返らまし」(巻第4-603)がありますが、これに倣ったものとされます。
2391の「玉かぎる」は「昨日」の枕詞。漢字では「玉響」と書かれ、ほかに「たまゆらに」「たまさかに」「まさやかに」などと訓まれています。玉と玉の触れ合うかすかな響きとか、ほんの束の間の時間とかの意味だとする説があります。「恋ふべきものか」の「か」は反語で、恋うべきであろうか、の意。「昨日の夕」と「今日の朝」の間の短い時間、その2つの言葉を対比させたところに技巧が窺えます。
2392の「なかなかに」は、なまじっかの意。「見ざりしよりは」の「見る」は、男女相逢う意。「ゆ」は、起点・経過点を示す格助詞。長い求婚の末、ようやく女に初めて逢えた後の男の歌です。窪田空穂は、「類想の多い歌であるが、単純にいっているのでかえって感がある」と言っています。
『遊仙窟』
中国、初唐時代に、流行詩人の張鷟(ちょうさく)、字(あざな)は文成、によって書かれた恋愛伝奇小説。
筋書は、作者と同名の「張文成」なる人物が、黄河上流の河源に使者となって行ったとき、神仙の岩窟に迷い込み、仙女の崔十娘(さいじゅうじょう)と兄嫁の王五嫂(おうごそう)の二人の戦争未亡人に一夜の歓待を受け、翌朝名残を惜しんで別れるというもの。その間に84首の贈答を主とする詩が挿入されている。
本書は中国では早く散逸したが、日本には奈良時代に伝来し、『 万葉集』の、大伴家持が坂上大嬢に贈った歌のなかにその影響があり、山上憶良の『沈痾自哀文(ちんあじあいのぶん)』などにも引用されている。
⇒ 各巻の概要