大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

月待ちて行ませ我が背子・・・巻第4-709

訓読 >>>

夕闇(ゆふやみ)は道たづたづし月待ちて行(い)ませ我(わ)が背子(せこ)その間(ま)にも見む

 

要旨 >>>

夕闇は道がおぼつかないでしょう。月の出を待ってからお行きなさい。お帰りになるその間、月の光で後ろ姿を見送りましょう。

 

鑑賞 >>>

 豊前国の娘子、大宅女(おおやけめ)の歌。「大宅」は字(あざな)で姓氏は未詳。遊行女婦だったと推測されています。昼に通ってきて、夕方に帰ろうとする男に、名残を惜しんでの歌です。「夕闇」は、毎月後半、日没から月の出までしばらく暗闇となる間。「たづたづし」は、はっきりしない、おぼつかない。

 斎藤茂吉は、この歌を秀歌に挙げ、次のように言っています。「『その間にも見む』は、甘くて女らしい句である。此頃になると、感情のあらわし方も細(こまか)く、姿態(しな)も濃(こま)やかになっていたものであろう。良寛の歌に『月読の光を待ちて帰りませ山路は栗のいがの多きに』とあるのは、此辺の歌の影響だが、良寛は主に略解(りゃくげ)で万葉を勉強し、むずかしくない、楽なものから入っていたものと見える」。

 

遊行女婦について 

 「遊行女婦」の「遊び」とは、元々、鎮魂と招魂のために歌と舞を演じる儀礼、つまり祭りの場に来臨した神をもてなし、神の心なぐさめる種々の行為を意味しました。「宴」が「遊び」とされたのも、宴が祭りの場に起源をもつからです。

そうした饗宴の場には、男性と共に女性も必要とされました。ところが、律令国家が成立して以降は、女性は次第に公的・政治的な場から排除されるようになります。官人らの宴席に、男性と同等の立場で参加できる女性は限られてきました。

中央には後宮があり、貴族の宴席に侍ってひけをとらない教養を持った女官がいましたが、律令規定では地方に女官は存在しません。その代わりに登場したのが遊行女婦だったと考えられています。