大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

沫雪のほどろほどろに降り敷しけば・・・巻第8-1639~1640

訓読 >>>

1639
沫雪(あわゆき)のほどろほどろに降り敷しけば奈良の都し思ほゆるかも

1640
我(わ)が岡(をか)に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも

 

要旨 >>>

〈1639〉淡雪がうっすらと地面に降り積もると、奈良の都が思われてならない。

〈1640〉我が家の岡に咲いた梅の花が今真っ盛りで、残雪と見間違えるほどだ。

 

鑑賞 >>>

 大伴旅人が、筑紫大宰府にいた時の歌。1639は、冬の日に雪を見て、京を思う歌。「淡雪」は細かい泡のような雪。「ほどろ」は、ほどく・ほとばしるの「ほと」と同根で、緊密な状態が散じて広がり緩むことを表す語。「夜明け方」を意味する「夜のほどろ」の形で多く登場しますが、ここでは雪が薄く降り積もったさまではないかとされます。類似の言葉に「はだら」「はだれ」があり、オ段とア段の母音交替によるものと考えられています。巻第10-2323にも、「わが背子を今か今かと出で見れば沫雪降れり庭もほどろに」という歌があります。一方、「降り敷く」ではなく「降り頻く」として、降り方がまばらで、いくらか断続して降っている様子ととる見方もあるようです。

 斎藤茂吉は、この歌について、「線の太い、直線的な歌いぶりであるが、感慨が浮(うわ)調子でなく真面目な歌いぶりである。細かく顫(ふる)う哀韻を聴き得ないのは、憶良などの歌もそうだが、この一団の歌人の一つの傾向と看做(みな)し得るであろう」と言っています。

 1640は、梅の歌。「我が岡」は、旅人が住んでいる岡の意で、大宰府の近くにある岡。「まがふ」は、混ざり合って見分けがつかない意。

 

大伴旅人の略年譜

710年 元明天皇の朝賀に際し、左将軍として朱雀大路を行進
711年 正五位上から従四位下
715年 従四位上中務卿
718年 中納言
719年 正四位下
720年 征隼人持説節大将軍として隼人の反乱の鎮圧にあたる
720年 藤原不比等が死去
721年 従三位
724年 聖武天皇の即位に伴い正三位
727年 妻の大伴郎女を伴い、太宰帥として筑紫に赴任
728年 妻の大伴郎女が死去
729年 長屋王の変(2月)
729年 光明子立后
729年 藤原房前に琴を献上(10月)
730年 旅人邸で梅花宴(1月)
730年 大納言に任じられて帰京(12月)
731年 従二位(1月)
731年 死去、享年67(7月)