大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

手もすまに植ゑし萩にや・・・巻第8-1633~1635

訓読 >>>

1633
手もすまに植ゑし萩(はぎ)にやかへりては見れども飽(あ)かず心 尽(つく)さむ

1634
衣手(ころもで)に水渋(みしぶ)付くまで植ゑし田を引板(ひきた)我が延(は)へまもれる苦し

1635
佐保川(さほがは)の水を堰(せ)き上げて植ゑし田を刈(か)れる初飯(はちいひ)はひとりなるべし

 

要旨 >>>

〈1633〉手も休めずに苦労して植えた萩だからだろうか、見ても見ても見飽きることがなく、かえって気になって仕方がなくなるようだ。

〈1634〉着物の袖に水垢がつくまでに苦労して稲を植えた田を、今は、鳴子の縄を張り巡らせて鳥獣から守らなければならないのが辛い。

〈1635〉佐保川の水を引いて苦労して稲を植えた田、その田で刈り取った最初の新米を食べるのは、ただ一人です。

 

鑑賞 >>>

 1633・1634は、ある人が尼に贈った歌2首。「ある人」は誰だか分からないのですが、巻第8は作者の明らかな歌の集であり、また年代順に配列してあるので、編者には分かっており、あえて名前や官位などを書き記さなかったと思われます。「尼」も同様です。
 
 1633の「手もすまに」は、手も休めずに。「かへりては」は、かえって。「心尽くさむ」は、気を揉む。1634の「衣手」は、袖。「水渋」は、水の垢。「引板」は、田を荒らしに来る鳥獣を追うための鳴子をつけた板で、縄につるして遠くからその縄を引っ張って鳴らす仕掛けの道具。「我が延へ」は、長く張り渡して。「守れる」は、監視番をする。

 1633は、尼を萩の花に譬え、保護者として面倒を見てきた尼が成長して萩の花のごとく美しくなり、悪い虫がつくのではないかと気にかかって苦労の種になったと言っており、1634は、尼を秋の田の稲に、また、尼に言い寄る男を鳥獣に譬え、監視する立場の苦しさをうたっています。戯れ半分の歌ですが、一人の男として、女盛りになった尼に異性としての魅力を感じている歌でもあります。といっても、尼よりだいぶ年長者だったらしく、言い寄り方に気品と余裕が感じられます。
 
 1635は尼が答えた歌。「初飯」は、その田で刈り取った最初の飯。原文「早飯」で「わさいひ」と訓むものもあります。題詞に、頭句(上3句)を尼が作り、大伴家持が尼に頼まれて末句(下2句)を作ったとあり、尼は、保護者のいわれる通りに自分を稲に譬え、保護者の労苦によって今の身となり得たことをいおうとしたものの、その続きが詠めずに、家持に頼んだようです。家持は一応、尼の気持ちを確かめてこの下の句をつけたのでしょうが、意味深長であり、「ひとりなるべし」の「ひとり」が誰を指すのかによって大きく解釈が分かれるところです。家持ほどの名手が、何という中途半端な句を付けたのかと批判する向きもあるようです。
 
 尼の保護者である「ある人」は家持とも親しかったとみえ、また、この尼は、歌の内容から佐保に住んでいることが察せられ、作歌が不得手だったところから、新羅から帰化して大伴家に寄住していた理願尼(りがんに)ではないかと想像されています。そうすると「ある人」は、大伴家の誰かだったことになります。なお、理願尼は、はるか遠く天皇の聖徳に感じてわが国に帰化した人で、天平7年に急病で死去した時に、大伴坂上郎女がその死を有馬の温泉で療養中の母に知らせた歌が載っています(巻第3-460~461)。