訓読 >>>
557
大船(おほふね)を漕ぎの進みに岩に触(ふ)れ覆(かへ)らば覆れ妹(いも)によりては
558
ちはやぶる神の社(やしろ)に我(わ)が懸(か)けし幣(ぬさ)は賜(たば)らむ妹(いも)に逢はなくに
要旨 >>>
〈557〉大船を勢いのまま漕ぎ進め、岩に触れて、転覆するならそれでも構わない。早く妻に逢えるなら。
〈558〉これほど海が荒れるなら、安全を祈願して神の社に捧げた供え物は返してただきたい。これでは妻に逢えないではないか。
鑑賞 >>>
土師宿祢水道(はにしのすくねみみち)が筑紫から京へ上る海道で作った歌。土師宿祢水道は伝未詳ながら、巻第5の大宰府における梅花の宴に列している人です。また、巻第16-3845の注から、大舎人(おおとねり)だったこと、字を志婢麻呂(しびまろ)といったことが分かっています。大舎人は、天皇に伴奉して雑使などをつとめた下級官人。
557の「妹によりては」は、妻のためには。558の「ちはやぶる」は「神」の枕詞。「幣」は、紙や麻や木綿などで作って木に挿み、神にささげた供え物。いずれの歌も大宰府から都へ帰る航路における歌で、557は順風によって船脚が速いのに調子づいて詠んだ歌、558は荒天で係留を余儀なくされた時に詠んだもののようです。都へ帰れる歓びと、早く妻に逢いたいとはやる気持ちが綯い交ぜになって、愉快かつ豪快な歌になっています。
大宰府について
7世紀後半に設置された大宰府は、九州(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の9か国と壱岐・対馬の2島)の内政を総管するとともに、軍事・外交を主任務とし、貿易も管理しました。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれました。府には防人司・主船司・蔵司・税司・厨司・薬司や政所・兵馬所・公文所・貢物所などの機構が設置されました。
府の官職は、は太宰帥(長官)、太宰大弐・太宰少弐(次官)、太宰大監・太宰少監(判官)、太宰大典・太宰少典(主典)の4等官以下からなっていました。太宰帥は、従三位相当官、大納言・中納言級の政府高官が兼ねるものとされていましたが、9世紀以後は、太宰帥には親王が任じられれる慣習となり、遙任(現地には赴任せず、在京のまま収入を受け取る)となり、権帥が長官(最高責任者)として赴任し、府を統括しました。なお、菅原道真の場合は左遷で、役職は名目なもので実権は剥奪されていました。
瀬戸内海航路
古来、日本列島の交通体系は、瀬戸内海の航路を中心に組み立てられてきました。古代における瀬戸内海は、北部九州(大宰府)と畿内の2つの拠点を結ぶ主要な航路としてその役割を果たしており、加えて、大陸文化の流入においても、朝鮮や中国への使節(遣唐使・遣新羅使)が畿内の難波津から目的地に向かう際に利用する重要な交通路となっていました。
そのため、大和朝廷は瀬戸内海沿岸の港の整備に力を入れ、遣唐使や遣新羅使の航路である難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、鞆の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館へと続く諸港が開かれました。
なお、万葉の時代の瀬戸内海航路には、山陽の南岸沿いのコースと四国の北岸沿いのコースがありましたが、時代が下るにつれて、後者のコースは利用されなくなりました。