訓読 >>>
降る雪の白髪(しろかみ)までに大君(おほきみ)に仕へまつれば貴(たふと)くもあるか
要旨 >>>
降り積もる雪のように、真っ白な白髪になるまで大君にお仕えさせていただいたことは、恐れ多く尊いことでございます。
鑑賞 >>>
聖武天皇の天平18年(746年)正月、左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)をはじめ諸臣が元正太上天皇の御在所に参り、雪かきの奉仕をしました。諸兄と元正太上天皇とは年齢も近く、親しい関係にあり、藤原氏の急成長に不安を抱いていた点では、同じ政治的立場にあったとされます。雪かきが終わると、ねぎらいのための宴が行なわれ、雪を題に歌を詠めとの仰せがあり、それに応えた歌です。
「白髪までに」は、老いて白髪となるまでに、の意。窪田空穂はこの歌を評し、「勅題の雪を枕詞にとどめ、一に皇恩の洪大なことを感謝している、老左大臣にふさわしい歌である。緊張を内に包んで、おおらかに、細部にわたらない、品位ある詠み方をしているのも、その心にふさわしい」と述べています。
この時の橘諸兄は63歳。敏達天皇の玄孫 美努王(みぬのおう)の子で、光明皇后の異父兄にあたります。初名は葛城王でしたが、のち臣籍に下り橘宿禰諸兄と名乗りました。悪疫で不比等の四子が死没して藤原氏が衰退したのち、右大臣となり政権を握ります。「藤原広嗣の乱」を乗りきり、恭仁京の経営に当たり、左大臣正一位に至って朝臣の姓を与えられるなど全盛を極めましたが、藤原仲麻呂の台頭によって実権を失うこととなります。
なお、この歌に続き、随伴した諸臣らの詠んだ4首の歌が載っています。
〈3923〉天(あめ)の下すでに覆(おほ)ひて降る雪の光りを見れば貴くもあるか
・・・天下を覆い尽くして降り積もった雪のまばゆいばかりの光を見ると、ただただ貴く思われます。~紀清人
〈3924〉山の狭(かひ)そことも見えず一昨日(をとつひ)も昨日(きのふ)も今日(けふ)も雪の降れれば
・・・どこが山の谷間とは見分けられないほど、一昨日も昨日も今日も雪が降り続いている。~紀男梶
〈3925〉新しき年の初めに豊(とよ)の年しるすとならし雪の降れるは
・・・新しい年の初めに、今年の豊作を告げる印に相違ない、この降り続く雪は。~葛井諸会
〈3926〉大宮の内にも外(と)にも光るまで降れる白雪(しらゆき)見れど飽かぬかも
・・・宮殿の内にも外にも光輝くように降り続く白雪は、見ても見ても飽きることがない。~大伴家持
3923は、諸臣の筆頭として、諸兄の歌の結句「貴くもあるか」をそのまま受けて諸兄を立てつつ、太上天皇を讃えています。諸兄の歌とこの歌は、ともに直接的に太上天皇の貴さ、ありがたさをうたっているのに対し、それ以下の3首は、雪の多さや縁起のよさ、美しさなどをうたうことで、間接的に太上天皇を讃えるという歌のつくりになっていることが分かります。宮廷の宴における序列や立場、役割をわきまえる峻厳さが窺えるところです。
この雪かきの前年(天平17年)に、都は平城京に戻っています。この宴は、家持にとって忘れられない記憶となったらしく、参加して歌を詠んだ人々の名をすべて書きとめています。家持はこの時29歳で、1年前に従五位下に叙せられていたことから、応詔歌を奏することができたのでした。この時の家持は、越中守に任ぜられる直前にあたります。