大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

嬥歌(かがい)の会の歌・・・巻第9-1759~1760

訓読 >>>

1759
鷲(わし)の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 娘子(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集(つど)ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻に 我(わ)も交(まじ)はらむ 我(わ)が妻に 人も言(こと)問へ この山を うしはく神の 昔より 禁(いさ)めぬわざぞ 今日(けふ)のみは めぐしもな見そ 事も咎(とが)むな

1760
男(を)の神に雲立ちのぼり時雨(しぐれ)ふり濡(ぬ)れ通るともわれ帰らめや

 

要旨 >>>

〈1759〉鷲の巣くう筑波山にある裳羽服津のほとりに、声をかけ合って集まった若い男女が手を取り合って歌い踊る場所がある。人妻に私も交わろう、私の妻にも声をかけてやってくれ。これは、この山の神が遠い昔からお許しになっている神事である。だから今日だけは、あわれに思わないでくれ、咎め立てをしないでくれ。

〈1760〉男の神山に雲が立ちのぼり、時雨にずぶ濡れになったとしても、私は帰りなどしないよ。

 

鑑賞 >>>

 筑波の嶺に登って嬥歌(かがい)の会をした日に、高橋虫麻呂が作った歌。嬥歌会(歌垣のことをいう東国の語)は、もともとは豊作を祈る行事で、春秋の決まった日に男女が集まり、歌舞や飲食に興じた後、性の解放、すなわち乱婚が許されました。昔の日本人は性に関してはかなり奔放で、独身者ばかりではなく、夫婦で嬥歌(歌垣)に参加して楽しんでいたようです。筑波山頂に男の神山(男体山)と女の神山(女体山)があり、男体山と女体山がつながる御幸が原が歌垣の場所だったようです。ただしこの歌自体は虫麻呂の実体験というより、当地の習俗の伝承を詠んだにすぎないとされます。

 1759の「裳羽服津」は所在不明。「津」は、一般に海岸や水辺の港のある所を指します。「率ひて」は、誘い合って。「かがふ」は、男女が唱和する、または性的関係を結ぶ。「交はらむ」は、性交しよう。「うしはく」は、土地を治める意。「めぐし」の意は、かわいい、痛々しい、監視するなど諸説あります。

 『常陸風土記』にも筑波山の嬥歌会のことが書かれており、それによると、足柄山以東の諸国から男女が集まり、徒歩の者だけでなく騎馬の者もいたとありますから、遠方からも大層な人数が、胸をわくわくさせて集まる一大行事だったことが窺えます。また、土地の諺も載っており、「筑波峰の会に娉(つまどひ)の財(たから)を得ざる者は、児女(むすめ)と為(せ)ず」、つまり「筑波峰の歌垣で、男から妻問いのしるしの財物を得ずに帰ってくるような娘は、娘として扱わない」というのですから驚きます。