訓読 >>>
2552
情(こころ)には千重(ちへ)しくしくに思へども使(つかひ)を遣(や)らむすべの知らなく
2553
夢(いめ)のみに見てすらここだ恋ふる吾(あ)はうつつに見てばまして如何(いか)にあらむ
2554
相(あひ)見ては面(おも)隠さるるものからに継(つ)ぎて見まくの欲(ほ)しき君かも
要旨 >>>
〈2552〉心の中では幾度も幾度も繰り返し思い焦がれているのだけれど、文の使いをやる手だても分からない。
〈2553〉夢の中で逢ってすら、こんなにもあの子に恋い焦がれるのに、まして現実に逢ったなら、いったいどんなことになるのだろう。
〈2554〉顔を合わせると、恥ずかしくて顔を隠したくなるのですが、それなのに、すぐにまた見たいと思う、あなたなのです。
鑑賞 >>>
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」3首。2552の「千重にしくしく」は、極めて頻繁に、重ね重ね、の意。「すべの知らなく」は、手だても分からないことよ。結句は女らしい調べながら男の立場の歌と見られ、娘との関係が、その家の者には秘密にしているので、逢引の約束を取り持つ使いをやる方法がないのを嘆いています。
2553の「ここだ」は、こんなに甚だしく。女に懸想している男が、明るい気持ちで空想して詠んだ歌で、窪田空穂は、「独詠に似ているが、それだと、このようにくわしくいう必要はないから、訴えの心をもって女に贈ったものと思われる。『うつつに見てはまして如何にあらむ』は、恋の成立を信じられた場合の訴えとしては、相手を動かす効果の上からは、相応に有力なもので、最も巧みな訴えと言いうるものである。その意味で上手な歌である」と述べています。
2554は、結婚後間もない女の歌。「面隠さるる」の「るる」は、自発「る」の連体形で、自然に顔を隠してしまう意。「ものからに」は、そういうものと決まっているのに、決まって自然に。「継ぎて」は、引き続いて。「見まく」は「見むこと」で、名詞形。作家の田辺聖子はこの歌について、「可憐な新妻の風情であるが、それにしても『 万葉集』の歌いぶりは古今独歩のもの、こんなに率直で飾り気のない言葉を並べながら、その奥にわくわくする心はずみ、美しい羞恥が揺曳(ようえい)し、たいそうデリケートな、清らかなエロスとなって発散している」と評しています。
歌の形式
片歌
5・7・7の3句定型の歌謡。記紀に見られ、奈良時代から雅楽寮・大歌所において、曲節をつけて歌われた。
旋頭歌
5・7・7、5・7・7の6句定型の和歌。もと片歌形式の唱和による問答体から起こり、第3句と第6句がほぼ同句の繰り返しで、口誦性に富む。記紀や 万葉集に見られ、万葉後期には衰退した。
長歌
5・7音を3回以上繰り返し、さらに7音の1句を加えて結ぶ長歌形式の和歌。奇数句形式で、ふつうこれに反歌として短歌形式の歌が1首以上添えられているのが完備した形。記紀歌謡にも見られるが、真に完成したのは万葉集においてであり、前期に最も栄えた。
短歌
5・7・5・7・7の5句定型の和歌。万葉集後期以降、和歌の中心的歌体となる。
仏足石歌体
5・7・5・7・7・7の6句形式の和歌。万葉集には1首のみ。
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