大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

防人の歌(15)・・・巻第20-4328~4330

訓読 >>>

4328
大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み磯(いそ)に触(ふ)り海原(うのはら)渡る父母(ちちはは)を置きて

4329
八十国(やそくに)は難波(なには)に集(つど)ひ船(ふな)かざり我(あ)がせむ日ろを見も人もがも

4330
難波津(なにはつ)に装(よそ)ひ装ひて今日(けふ)の日や出でて罷(まか)らむ見る母なしに

 

要旨 >>>

〈4328〉大君のご命令を恐れ畏んで、磯から磯を伝いながら、海原を渡っていく、父母を置いたまま。

〈4329〉諸国の防人たちが難波に集結し、船かざりをして船出に備える。その日の晴れ姿を見送る人がいてくれたらなあ。

〈4330〉難波津で船を飾り立てて今日という日、いよいよ任地に向かう。見送りに来る母もないままに。

 

鑑賞 >>>

 相模国の防人の歌。4328の「大君の命畏み」は、成句となっている表現。「磯に触り」は、磯に接しながら。当時の船は風波への抵抗力が弱かったため、風波があればただちに岩陰に退避できるるよう、できるだけ海岸を離れずに航行したので、そのさまを具象的に言ったものです。「海原(うのはら)」は「うなばら」。4329の「八十国」は、多くの国の人々の意で、防人のこと。「日ろ」の「ろ」は、接尾語。「見も」は「見む」の転。「もがも」は、願望。4330の「装ひ装ひて」は、装いに装って。

 難波に集結した防人たちは、兵部省の役人による手続きを終えたのち、大宰府の防人司から派遣されてきた役人に引率され、海路で筑紫に向かいました。遠い東国の人間がなぜ防人に徴集されたかの理由の一つに、逃亡しにくかったからではないかとする見方があります。土地勘がないので逃亡をはじめからあきらめる、また、たとえ逃亡しても方言からすぐに発覚してしまうから、というのです。あるいは、東国の力が強く、その反乱を未然に防ぐため、あえて東国の男たちを西に運んだとする見方もあるようです。