大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

亡くなった弟を哀傷する歌・・・巻第17-3957~3959

訓読 >>>

3957
天離(あまざか)る 鄙(ひな)治(をさ)めにと 大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに 出でて来(こ)し 我(わ)れを送ると あをによし 奈良山(ならやま)過ぎて 泉川(いづみがは) 清き河原(かはら)に 馬 留(とど)め 別れし時に ま幸(さき)くて 我(あ)れ帰り来(こ)む 平らけく 斎(いは)ひて待てと 語らひて 来(こ)し日の極(きは)み 玉桙(たまほこ)の 道をた遠(どほ)み 山川の 隔(へな)りてあれば 恋しけく 日(け)長きものを 見まく欲(ほ)り 思ふ間(あひだ)に 玉梓(たまづさ)の 使ひの来(け)れば 嬉(うれ)しみと 我(あ)が待ち問(と)ふに およづれの たはこととかも はしきよし 汝弟(なおと)の命(みこと) 何しかも 時しはあらむを はだすすき 穂の出(い)づる秋の 萩(はぎ)の花 にほへるやどを〈言ふこころは、この人ひととなり、花草花樹を好愛(め)でて多(さは)に寝院(しんいん)の庭に植ゑたり。故(ゆゑ)に「花にほへる庭(やど)」と謂ふ〉 朝庭(あさには)に 出で立ち平(なら)し 夕庭(ゆふには)に 踏み平(たひら)げず 佐保(さほ)の内の 里を行き過ぎ あしひきの 山の木末(こぬれ)に 白雲に 立ちたなびくと 我(あれ)に告げつる〈佐保山に火葬す。故に「佐保の内の里を行き過ぎ」といふ〉

3958
ま幸(さき)くと言ひてしものを白雲(しらくも)に立ちたなびくと聞けば悲しも

3959
かからむとかねて知りせば越(こし)の海の荒礒(ありそ)の波も見せましものを

 

要旨 >>>

〈3957〉都から遠く離れた鄙の国を治めるためにと、大君のご命令のままに出かけて来た私を見送るといって、国境の奈良山を過ぎ、泉川の清らかな河原に馬を留めて別れたその時に、何事もなく無事に帰ってくるから、お前も変わりなく、無事を祈って待っていてくれと語ってやってきた。その日から今日まで、道は遠く、山川が隔たっているものだから、恋しさは日を重ねてつのるばかりで、会いたいものだと思っているところへ、使いがやってきた。嬉しやと、待ちかねて聞けば、でたらめの戯言なのか、何たること、いとしい我が弟よ、いったいどんな気持ちで、時は今でなくともいくらもあろうに、すすきが穂を出す秋の、萩の花が咲くその庭を(こううたったのは、彼は生来、花草や花樹が大好きで、たくさん母屋の庭に植えていたから。それゆえ「花薫へる庭」と言う)、朝の庭に出で立って踏みならすことも、夕べの庭に立って行ったり来たりもせず、佐保の内の里を通り過ぎ、山の梢の先に白雲となってたなびいているなどと、どうして私に知らせてよこしたのだ。(佐保山で火葬した。それゆえ「佐保の内の里を行き過ぎ」と言う)

〈3958〉無事でいてくれよと、あれほど言い置いたのに、白雲になってたなびいていると聞いて悲しい。

〈3959〉こんなことになると前々から分かっていたなら、この越の海の荒磯の波を見せておくのだったのに。

 

鑑賞 >>>

 題詞に「長逝せる弟を哀傷しぶる歌」とある大伴家持の歌です。天平18年(746年)9月25日、越中にいた家持のもとに、京から弟・書持(ふみもち)の訃報が届きました。すでに佐保山で火葬されたとの報せも含まれており、家持は奈良に赴くこともかないませんでした。その2か月前、家持が越中に赴任するとき、弟は馬で奈良山を越え、泉川(木津川)まで送ってくれたのでした。互いに別れを惜しみ、「ま幸くて 我れ帰り来む 平らけく」と言い交わして別れたばかりだったのです。

 大伴書持は旅人の子で、家持の異母弟にあたります(生年不明)。若いころから家持と共に和歌の創作に励んだらしく、『万葉集』に12首の歌を残しています。ただし、続日本紀などに名は見えず、また『万葉集』を見ても官職に就いていた形跡はありません。使いの者から書持の死を知らされた時の家持は29歳でしたから、書持はあまりに若くして亡くなっています。

 3957の「天離る」は「鄙」の枕詞。「鄙」は都から遠く離れた地。「任け」は地方官として派遣すること。「あをによし」は「奈良」の枕詞。「奈良山」は、平城京の北、山背国との国境にある丘陵。「泉川」は、木津川。「斎ひて」は、身を慎んで祈って。「玉桙の」は「道」の枕詞。「玉梓の」は「使ひ」の枕詞。「およづれ」は、人を迷わす言。「たはこと」はでたらめ。「はしきよし」は、ああいとしい。「汝弟」の「汝」は、親愛して添える語。「あしひきの」は「山」の枕詞。「木末」は梢、木の枝先。「白雲」は、煙の比喩。