訓読 >>>
3586
我(わ)が故(ゆゑ)に思ひな痩(や)せそ秋風の吹かむその月(つき)逢はむもの故(ゆゑ)
3587
栲衾(たくぶすま)新羅(しらき)へいます君が目を今日(けふ)か明日(あす)かと斎(いは)ひて待たむ
3588
はろはろに思ほゆるかも然(しか)れども異(け)しき心を我(あ)が思はなくに
要旨 >>>
〈3586〉私のために思い悩んで痩せたりなどしないでおくれ。秋風が吹き始めるその月には、きっと逢えるのだから。
〈3587〉はるばる新羅の国へお出かけになるあなたにお逢いできる日を、今日か明日かと、身を清めてはずっとお待ちしています。
〈3588〉遙か遠くにいらっしゃると思われるけれども、移り心などを抱こうなどとは、私は決して思いません。
鑑賞 >>>
3586は、妻を慰めて安んじさせようとする夫の歌。旅の性質には触れず、ただ速やかに帰ってくることだけを言っています。窪田空穂は、「男性的な心からの柔らかい歌であり、『故』という語が二回まで用いられているが、よくこなれて、むしろ調子を助けるものとなっている」と言っています。「な痩せそ」の「な~そ」は、禁止。
3587・3588は、それに妻が答えた歌。3587の「栲衾」の「栲」は楮(こうぞ)で、その繊維で織った衾が白いところから、色が白い意で「新羅」の枕詞としたもの。「います」は「行く」の敬語。「斎ふ」は、吉事を祈って禁忌を守る。
3588の「はろはろ」は、遥かに遠いさま。「異しき心」は、あだし心、夫に背く心。当時の夫婦は別居で、関係も秘密にしている場合が多かったため、しばしばこうした誓いの歌が詠まれています。もっとも、この夫妻は相応の身分があり、秘密の間柄にある夫婦ではなかったはずですが、場合が場合なだけに、あえて誓いの歌を詠んで、夫の心を慰めたものとみられます。
遣新羅使について
巻第15の前半は、天平8年(736年)に新羅国(朝鮮半島南部にあった国)に外交使節として派遣された使人たちの歌が145首収められており、その総題として「遣新羅使人ら、別れを悲しびて贈答し、また海路にして情をいたみ思を陳べ、併せて所に当りて誦ふ古歌」とあります。
使節団の人数は総勢200人前後だったとみられ、歌が詠まれた場所をたどっていくと、難波を出航後、瀬戸内の各港や九州の能古島、対馬などを経て新羅に向かったことがうかがえます。天智7年(668年)から始まった遣新羅使は約3世紀にわたって派遣されましたが、これらの歌が詠まれた時(天平8年:736年)の新羅国と日本の関係は必ずしも良好ではなかったため、使節の目的は果たせなかったばかりか、往路ですでに死者を出し、帰途には大使の阿倍継麻呂(あべのつぎまろ)が病死するなど、払った犠牲に対し成果が得られなかった悲劇的な使節でした。
この一行には、副使として、大伴家持の同族である大伴御中(おおとものみなか)も加わっており、同人が作った歌も2首含まれています。遣新羅使人らの歌は、御中が記録し、後に家持らに伝わったものとみられています。