大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

柿本人麻呂が旅の途上に詠んだ歌・・・巻第3-249~256

訓読 >>>

249
御津(みつ)の崎(さき)波を恐(かしこ)み隠江(こもりえ)の船なる君は野島(ぬしま)にと宣(の)る

250
玉藻(たまも)刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島が崎に舟近づきぬ

251
淡路(あはぢ)の野島が崎の浜風に妹(いも)が結びし紐(ひも)吹きかへす

252
荒栲(あらたへ)の藤江の浦に鱸(すずき)釣る白水郎(あま)とか見らむ旅行くわれを

253
稲日野(いなびの)も行き過ぎかてに思へれば心恋しき可古(かこ)の島見ゆ

254
ともしびの明石(あかし)大門(おほと)に入(い)らむ日や榜(こ)ぎ別れなむ家のあたり見ず

255
天離(あまざか)る夷(ひな)の長道(なかぢ)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ

256
飼飯(けひ)の海の庭(には)好(よ)くあらし刈薦(かりこも)の乱れ出(い)づ見ゆ海人(あま)の釣船

 

要旨 >>>

〈249〉御津の崎に打ち寄せる波を恐れ、深い入江で風待ちをしていた船のあるじである君は、さあ野島へと宣言なさった。

〈250〉美しい藻を刈っている敏馬の海をあとにして、夏草の茂る野島の崎に、いよいよ私の舟が近づいてきた。

〈251〉淡路の野島の崎の浜風に、妻が旅立ちのときに結んでくれた上着の紐を吹き返らせている。

〈252〉藤江の浦に鱸を釣る猟師とみるだろうか、旅行くこの私を。

〈253〉稲日野近くの海を航していると、船足が捗々しくなく、いろいろ物思いしていたが、ようやくにして恋しい可古の島が見え出した。

〈254〉明石の海門を通過するころには、いよいよ家郷の大和の山々とも別れることとなるんだ。

〈255〉遠く隔たった地方からの長い旅路に、ずっと故郷を恋しく思いつつ戻って来たら、明石海峡から懐かしい大和の山々が見えてきたぞ。

〈256〉飼飯の海は穏やからしい。刈り取った薦のように、猟師の釣船があちらこちらから漕ぎ出てくるのが見える。

 

鑑賞 >>>

 柿本人麻呂が旅の途上に詠んだ歌8首。いずれも船旅で、公務で地方に下向したときの歌とみられます。この少しあとに「柿本朝臣人麻呂、筑紫の国に下る時に、海道にして作る歌」(巻第3-303・304)が出てくるので、その道中に詠んだものかもしれません。

 249の「御津の崎」は、難波の港の先端。「隠江」は、隠れて見えない入江。「船なる君は野島にと宣る」の句は、原文では「舟公宣奴嶋尓」となっており、難訓とされます。250の「玉藻刈る」は「敏馬」の枕詞。「敏馬」は、いまの神戸市灘区岩屋・大石の付近で、瀬戸内海を西へ向かう航路の最初の泊(とまり)とされていました。「夏草の」は「野」の枕詞。251の「野島が崎」は、淡路島の北西岸の地。夫婦が別れる時、互いの着物の紐を結び合い、再会するまで解かないことを誓う風習があり、その紐が風に翻るのを見て妻を思い出しています。

 252の「荒栲の」は「藤江」の枕詞。「藤江」は、いまの明石市藤江。253の「稲日野」は、印南野ともいい、いまの兵庫県高砂市から明石市にかけての平野。「可古の島」は、兵庫県加古川市にあったらしい加古川河口の島。254の「ともしびの」は「明石」の枕詞。「明石大門」は、明石市と淡路島との間の海峡。明石は畿内の西端とされ、これより西は「天離る鄙」となり、旅人の不安が募る所でした。255は、逆に西方からの帰路の歌。256の「飼飯」は、いまの淡路島津名郡五色町。「刈薦の」は「乱れ」の枕詞。

 斎藤茂吉はこれらの歌のうち、250・253・254・255を秀歌として採り上げており、254の歌に関しては次のように評しています。

「第4句で「榜ぎ別れなむ」と切って、結句で『家のあたり見ず』と独立的にしたのは、その手腕敬憬すべきである。由来、『あたり見ず』というような語には、文法的にも毫も詠嘆の要素が無いのである。『かも』とか『けり』とか、『はや』とか『あはれ』とか云って始めて詠嘆の要素が入ってくるのである。文法的にはそうなのであるが、歌の声調方面からいうと、響きから論ずるから、『あたり見ず』で十分詠嘆の響きがあり、結句として『かも』とか『けり』とかに匹敵するだけの効果をもっているのである」

 律令制の時代になると、中央と地方の行政機関との連絡のため、役人が頻繁に行き来するようになりましたが、古来の旅にまつわる信仰や旅の歌の伝統は踏襲されました。それによる旅の歌の原則は、第一に「訪れた土地の名を入れる」ことで、その土地の神の名でもある地名を入れた歌を作って賛美することによって、無事に通過できるよう願い、第二には「故郷や妻、家をうたう」ことによって魂がつながり、安全を保証するというものでした。