大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

明日よりは下笑ましけむ・・・巻第6-938~941

訓読 >>>

938
やすみしし 我が大君(おほきみ)の 神(かむ)ながら 高(たか)知らせる 印南野(いなみの)の 邑美(おふみ)の原の 荒たへの 藤井の浦に 鮪(しび)釣ると 海人船(あまぶね)騒(さわ)き 塩焼くと 人ぞ多(さは)にある 浦を吉(よ)み うべも釣りはす 浜を吉み うべも塩焼く あり通ひ 見(め)さくも著(しる)し 清き白浜

939
沖つ波(なみ)辺波(へなみ)静(しづ)けみ漁(いさり)すと藤江(ふぢえ)の浦に船そ動ける

940
印南野(いなみの)の浅茅(あさぢ)押しなべさ寝(ぬ)る夜の日(け)長くしあれば家し偲(しの)はゆ

941
明石潟(あかしがた)潮干(しほひ)の道を明日よりは下笑(したゑ)ましけむ家近づけば

 

要旨 >>>

〈938〉わが天皇が安らかにお治めになる印南野の邑美の原にある藤井の浦に、鮪を釣ろうと海人の船があちらこちらに行き交い、海水から塩を焼こうと人がたくさん集まっている、浦がよいのでなるほど釣りをする、浜がよいのでなるほど海水から塩を焼く。たびたび通い御覧になるのも当然だ、この清らかな白浜よ。

〈939〉沖の波も岸辺の波も静かなので、漁をしようと藤江の浦に舟を出し、賑やかに行き交っている。

〈940〉印南野の原で浅茅を敷いて旅寝する夜が幾日も続いたので、故郷の家が懐かしく思われてならない。

〈941〉明石潟の潮が引いた道を、明日からは心うれしく歩いて行くだろう。妻の待つ家が近づくから。

 

鑑賞 >>>

 聖武天皇播磨国の印南野に行幸された時に、山部赤人が作った歌。「印南野」は、兵庫県加古川市から明石市にかけての丘陵地。938の「やすみしし」は「我が大君」の枕詞。「神ながら」は、神そのままに。「高知らせる」は、立派にお治めになっている。「邑美の原」は、明石市の西北部の大久保町あたりか。「荒たへの」は「藤井」の枕詞。「藤井の浦」は、明石市藤江あたり。「鮪」は、マグロの類。「吉み」は、よいので。「うべも」は、なるほど、もっともなことに。「見さくも著し」は、ご覧になるのはもっともだ。

 939の「沖つ波辺波」は、沖の波も岸辺の波も。「静けみ」は、静かなので。「藤江の浦」は、明石市藤江の海岸。長歌では「藤井の浦」と言っており、二通りに呼んでいたもののようです。940の「浅茅」は、丈の低い茅(ちがや:イネ科の多年草)。「さ寝る」の「さ」は、接頭語。941の「明石潟」は、明石の海岸。「下笑ましけむ」の「下」は、心の中で、「笑ましけむ」は、うれしく思うことだろう。

 941の歌について、窪田空穂は次のように述べています。「明日は都へ向って発足できるとわかった日の心うれしさを言ったものである。漠然とした取りとめのないうれしさで、言葉ともなり難いものであるのに、赤人は静かに帰路を辿る自身を想像の中に浮かべ、路の中でも最も風景のよい明石渇の潮干の道を歩ませ、しかも一歩一歩家の近づくことを思って、心中ひそかに笑ましくしている自身を捉えている。実際に即してのこの心細かい想像力は、驚嘆に値するものである。この時代の心細かい歌風の先縦をなすもので、特色ある歌である」。