訓読 >>>
1843
昨日(きのふ)こそ年は果てしか春霞(はるかすみ)春日(かすが)の山に早(はや)立ちにけり
1844
冬過ぎて春(はる)来(きた)るらし朝日さす春日(かすが)の山に霞(かすみ)たなびく
1845
鴬(うぐひす)の春になるらし春日山(かすがやま)霞(かすみ)たなびく夜目(よめ)に見れども
要旨 >>>
〈1843〉つい昨日、年が暮れたばかりだというのに、もう春霞が春日山にかかっている。
〈1844〉冬が過ぎ去って春がやってきたらしい。朝日がさしている春日山に霞がたなびいている。
〈1845〉ウグイスの鳴く春がやってきたようだ。春日山にはもう霞がたなびいている、夜目にもはっきりと。
鑑賞 >>>
「霞を詠む」歌で、いずれも春日山にかかる霞を詠んでいます。「春日山」は、 奈良市の東部にある、御蓋山(みかさやま)、若草山などの山の総称。古くから神奈備山として崇敬され、特に平城京遷都以後は朝廷から尊ばれました。殺生禁断が守られてきたため、広大な原生林(春日山原始林)が今日まで残されています。また、ここの「霞」と同じように視界を遮る現象に「霧」がありますが、霞が自分とは距離を隔てた所にあるのに対し、霧は自らをも包み込んでしまうものと把握されていたようです。1845の「鶯の」は「春」の枕詞とする説もありますが、鶯の鳴く春と見るのが一般的。
季節の移ろいをうたった歌に「春日」や「春日野」「春日山」が多く出てきますが、『万葉集』の歌はほとんど平城京の人々の歌であるため、都の人々は、その周辺に季節の変化を感じ、そこに出かけて、花や黄葉を称えていたわけです。これらの歌にも、奈良朝時代の耽美気分がよく現れています。また、春日野で皇族や臣下の子弟たちが春日野に集まって打毬(だきゅう)の遊びをしたとの記述もみられ(巻第6-948・949の左注)、都人にとっては格好のレジャー空間だったようです。