大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

巻向の桧原に立てる春霞・・・巻第10-1813~1815

訓読 >>>

1813
巻向(まきむく)の桧原(ひはら)に立てる春霞(はるかすみ)おほにし思はばなづみ来(こ)めやも

1814
いにしへの人の植ゑけむ杉(すぎ)が枝(え)に霞(かすみ)たなびく春は来(き)ぬらし

1815
子らが手を巻向山(まきむくやま)に春されば木(こ)の葉(は)凌(しの)ぎて霞(かすみ)たなびく

 

要旨 >>>

〈1813〉巻向の檜林にぼんやりとに立ちこめている春霞、その春霞のように、軽々しい気持ちで思うのだったら、こんなに難渋しながらここまでやって来るだろうか。

〈1814〉昔の人が植えたのだろう、その杉木立の枝に霞がたなびいている。春がやって来たようだ。

〈1815〉あの子が手を巻くという、その名の巻向山に春がやってくると、木々の葉を押し伏せるように霞がたなびいている。

 

鑑賞 >>>

 1813の「巻向」は奈良県桜井市北部、穴師を中心とした一帯で、人麻呂の妻がいた地でもあります。上3句は「おほに」を導く序詞。「おほに」は、明瞭でない状態、ぼんやりとしたさまを示し、視覚的な不確かさを表す語ですが、いい加減なさま、なおざりなさまを表現する場合もあり、ここは後者の意。「し」は、強意。「なづみ」は骨を折って。「やも」は反語。

 1814の「植ゑけむ」の「けむ」は、過去推量。「春は来ぬらし」は、春は来たらしい。1815の「子らが手を」は「巻向山」の枕詞。「巻向山」は、桜井市穴師の東方にある標高567mの山。「春されば」は、春になると。「凌ぐ」は、押し伏せる、押さえつける。なお、これらの歌にある「霞」と同じように視界を遮る現象に「霧(きり)」がありますが、霞が自分とは距離を隔てた所にあるのに対し、霧は自らをも包み込んでしまうものと把握されていたといいます。