大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

君が代も我が代も知るや・・・巻第1-10~12

訓読 >>>

10
君が代(よ)も我(わ)が代も知るや磐代(いはしろ)の岡の草根(くさね)をいざ結びてな

11
吾背子(わがせこ)は仮廬(かりほ)作らす草なくば小松(こまつ)が下の草を刈(か)らさね

12
吾(わ)が欲(ほ)りし野島(のしま)は見せつ底ふかき阿胡根(あごね)の浦の珠(たま)ぞ拾(ひり)はぬ

 

要旨 >>>

〈10〉あなたの命も私の命も、ここ磐代の岡の心のままです。そこに生えている草を結びましょう、そして命の無事を祈りましょう。

〈11〉あなたが作っておられる仮廬のための適当な草がなければ、小松の下の萱をお刈りなさいな。

〈12〉私が見たいと思っていた野島は見せていただきました。でも、深い阿胡根の浦の真珠はまだ拾っていません。

 

鑑賞 >>>

 中皇命(なかつすめらのみこと)の紀の温泉に往(い)ませる時の御歌3首。「中皇命」は、中継ぎの女帝をさす一般名詞です。

 紀の温泉は和歌山県白浜あたりの温泉で、658年10月から翌年正月にかけて、斉明天皇行幸がありました。左注には「山上憶良の『類聚歌林』によれば、右の歌は斉明天皇の御製である」旨の記載があります。とすれば、「君が代」の「君」は夫君の舒明天皇ということになりますが、女帝の背の君である舒明天皇はすでに亡くなっていますから、ここでは同行したとみられる中大兄皇子のことかもしれません。

 10の「代」は御代ではなく、齢・寿命・健康のこと。「知るや」の「知る」は、支配する意。「磐代の岡」は、紀の温泉に行く途中の和歌山県日高郡南部町にあった岡。有馬皇子が松の枝を結んだので名高くなった所(巻第2-141~142)で、旅行者はここの道の神に手向けをして通らねばなりませんでした。そして、草を結ぶのは、その草に自分の霊魂を結びつける意味であり、長命を祈る呪術行為の一つでした。「草根」は草のことで、「根」は地に生えている意で添えた接尾語。

 11の「吾背子」も中大兄皇子を指しているとみられ、母子の間でもこういう呼び方は不自然ではありませんでした。「仮廬」は仮の廬で、当時の旅行では身分の高い人の寝所として作ることになっていました。草を刈るのは屋根を葺くためで、磐代の岡に宿泊したとみえます。一つの用向きを歌にしたものですが、この時代は改まってものを言うときは、歌の形式をもってするのがならわしとされ、やがてそれが日常に交わされる言葉にも広がったといいます。「作らす」は「作る」の敬語。「刈らさね」の「ね」は、希望の助詞。

 12の「野島」は、同県御坊市名田町野島。「阿胡根の浦」は、所在不明。「珠」は、真珠貝。「拾ふ」は、この時代は「ひりふ」と言っており、「ひろふ」は東歌にあるのみです。