訓読 >>>
2368
たらちねの母が手離れ斯(か)くばかり術(すべ)なき事はいまだ為(せ)なくに
2369
人の寝(ぬ)る味寐(うまい)は寝ずて愛(は)しきやし君が目すらを欲(ほ)りし嘆かふ
2370
恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉桙(たまほこ)の道行く人の言(こと)も告(の)らなく
要旨 >>>
〈2368〉物心がつき、母の手を離れてから、これほどどうしようもなく辛いことは、未だしたことがありません。
〈2369〉人並みにあなたと共寝をすることができない私は、いとしいあなたの目だけでも見ていたいと、そればかり願って嘆き続けています。
〈2370〉恋に苦しんで死ぬなら死んでしまえとでもおっしゃるのでしょうか。道行く人は誰も言伝てを告げてくれません。
鑑賞 >>>
『柿本人麻呂歌集』から、「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。「正述心緒」歌は「寄物陳思(物に寄せて思いを述ぶる)」歌に対応する、相聞に属する歌の、表現形式による下位分類であり、巻第11・12にのみ見られます。一説には柿本人麻呂の考案かとも言われます。
2368の「たらちねの」は「母」の枕詞。「母が手離れ」は、一人前になっての意。「術なき」は、やるせない、辛い、どうしようもない。「いまだ為なくに」は、まだしたことがないのに。切実な思いを歌っており、男の歌か女の歌か分かりませんが、年ごろになったものの未だ独り立ちできず、すぐに母を連想する若い娘の歌とみるべきでしょう。また、この歌を初体験の歌だとみる人もいるようです。相手の男に訴えている歌でしょうか。いずれにせよやや大仰な物言いから、歌謡の世界を引きずっているかのようですが、短歌としてのまとまりがあり、創作歌であろうとされます。なお、斎藤茂吉は、「憶良が熊凝(くまこり)を悲しんだ歌に、『たらちしや母が手離れ』(巻第5-886)といったのは、この歌を学んだものであろう」と言っています。
2369の「味寐」は、快い眠りの意で、男女の共寝に限って用いられるといいます。「人の寝る味寐(うまい)は寝ずて」は、「このごろは色々と思い乱れて、人並みに安眠ができず」と解釈するものもあります。「愛しきやし」は、いとしい。「欲りし」は、願って。「嘆かふ」は、嘆くの連続。窪田空穂は、「いちずで、直截で、いささかの厭味もなく、純粋無垢のものである。きわめて平凡な心であるが、力をもって生きている趣がある」と評しています。
2370の「恋ひ死なば恋ひも死ねとや」は、恋い死ぬなら恋死にせよというのであろうか。「玉桙の」は「道」の枕詞。作者は、夕暮れの道を行き交う人の言葉から吉凶を占う夕占(ゆうけ)をしています。「言も告らなく」は、期待しているようなよい知らせ、あるいは男からの言伝のような言葉を、誰も口にしてくれないという意味。
『柿本人麻呂歌集』について
『万葉集』には題詞に人麻呂作とある歌が80余首あり、それ以外に『人麻呂歌集』から採ったという歌が375首あります。『人麻呂歌集』は『万葉集』成立以前の和歌集で、人麻呂が2巻に編集したものとみられています。
この歌集から『万葉集』に収録された歌は、全部で9つの巻にわたっています(巻第2に1首、巻第3に1首、巻第3に1首、巻第7に56首、巻第9に49首、巻第10に68首、巻第11に163首、巻第12に29首、巻第13に3首、巻第14に5首。中には重複歌あり)。
ただし、それらの中には女性の歌や明らかに別人の作、伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではないようです。題詞もなく作者名も記されていない歌がほとんどなので、それらのどれが人麻呂自身の歌でどれが違うかのかの区別ができず、おそらく永久に解決できないだろうとされています。
文学者の中西進氏は、人麻呂はその存命中に歌のノートを持っており、行幸に従った折の自作や他作をメモしたり、土地土地の庶民の歌、また個人的な生活や旅行のなかで詠じたり聞いたりした歌を記録したのだろうと述べています。
⇒ 各巻の概要