大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌(6)・・・巻第15-3736~3744

訓読 >>>

3736
遠くあれば一日(ひとひ)一夜(ひとよ)も思はずてあるらむものと思ほしめすな

3737
人よりは妹(いも)ぞも悪(あ)しき恋もなくあらましものを思はしめつつ

3738
思ひつつ寝(ぬ)ればかもとなぬばたまの一夜(ひとよ)もおちず夢(いめ)にし見ゆる

3739
かくばかり恋ひむとかねて知らませば妹(いも)をば見ずぞあるべくありける

3740
天地(あめつち)の神(かみ)なきものにあらばこそ我(あ)が思ふ妹(いも)に逢はず死にせめ

3741
命(いのち)をし全(また)くしあらばあり衣(きぬ)のありて後(のち)にも逢はざらめやも [一云 ありての後も]

3742
逢はむ日をその日と知らず常闇(とこやみ)にいづれの日まで我(あ)れ恋ひ居(を)らむ

3743
旅といへば言(こと)にぞ易(やす)き少(すくな)くも妹(いも)に恋ひつつ術(すべ)なけなくに

3744
我妹子(わぎもこ)に恋ふるに我(あ)れはたまきはる短き命(いのち)も惜(を)しけくもなし

 

要旨 >>>

〈3736〉遠く離れているから、一日や一夜はあなたを思わないでいるなどと思わないでください。

〈3737〉他の人よりも、むしろあなたが悪い。こんな苦しい恋をせずにいたものを、やたらに嘆かせるばかりで。

〈3738〉あなたのことばかり思って寝るせいか、むやみやたらと、一晩も欠かさずあなたの夢をみる。

〈3739〉こんなにも恋い焦がれ苦しむと、前々から分かっていれば、あなたに出会わなければよかった。

〈3740〉天地の神々がいらっしゃらなければ、私の思い焦がれるあなたに逢うこともなく、死んでいけただろうに。

〈3741〉この命さえ無事であったなら、この世にあってこの後に、逢わないことがあろうか、ありはしない。

〈3742〉逢える日をいつとは知れないまま、永久の闇の中で、いつまで私は恋焦がれているのだろうか。

〈3743〉旅といえば、言葉で言うのはたやすいが、その身になってみると、あなたに恋い焦がれてばかりいて、全くなす術がないことだ。

〈3744〉愛しいあなたに恋い焦がれている私は、その苦しさのあまり、この短い命さえ、もう惜しくなどない。

 

鑑賞 >>>

 中臣宅守が、配流地の越前国に着いて作った歌14首のうちの9首。3736の「思ほしめすな」は「思ふな」の敬語。3737の「思はしめつつ」は、嘆かせ続けて。3738の「もとな」は、由なくも、むやみやたらと。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。3739の「知らませば」の「ませば」は、反実仮想。3741の「命をし」の「し」は、強意。「全くし」は、無事である。「あり衣の」は「ありて」の枕詞。「逢はざらめやも」の「や」は、反語。3742の「常闇」は、永久の闇。3743の「少くも」は、強い否定、決してない。3744の「たまきはる」は「命」の枕詞。「惜しけく」は「惜し」の名詞形。

 斎藤茂吉は「贈答歌を通読するに、宅守よりも娘子の方が巧みである。そしてその巧みなうちに、この女性の息吹をも感ずるので宅守は気乗りしたものと見えるが、宅守の方が受身という気配があるようである」と言い、また、3740、3742にあるように「天地の神」とか「常闇」とか詠い込んでいるのにそれほど響かないのは、おとなしい人だったのかもしれない、と言っています。

 しかし一方では、娘子の歌は表現に誇張が過ぎるとしてしりぞけ、宅守の歌にこそ男の痛恨があるとみて評価する向きもあります。土屋文明などは、前掲の娘子の歌への批判に続き、「宅守の歌は素直な心持がそのままに響いていて、娘子の歌の大げさなしなを作っているのとは趣きが違う」と言っています。こうした見方に対して詩人の大岡信は、「日本の和歌が、本質的・根源的に『女性』とは切っても切れない性質のものであったということを考えの中心に置かない限り、個々の和歌を見る見方も、必然的に片寄ったものになる」と反論しています。また、「娘子によるような芝居じみた表現が『万葉集』から失われてしまったら、何という心浮きたつことのない、陰気な歌集になってしまっただろう」とも。